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◎イスラーム 24 アラビア科学 2

2015-10-12 22:20:07 | 宗教
イスラーム 24 アラビア科学 2

2 シリア・ヘレニズム(5世紀~7世紀)

○ビザンティン文明圏からシリア語訳されてシリア文明圏へ

○ビザンティン帝国のギリシア正教会を追われたネストリウス派のキリスト教徒の手によってギリシア科学書のシリア語訳がつくられた

 ネストリウス派は431年のエフェソス公会議で異端とされ(ネストリウスはイエスという1つの人格の中に、神性と人性という2つの本性が存在しているとした)、ビザンティン帝国を追われる

 ネストリウス派のキリスト教徒たちは、まずエジプトに逃れる

 次に、メソポタミア(西アジア)のエデッサという町に移る
 エデッサにキリスト教の学校が建てられていたが、ネストリウス派の拠点となった
 489年にビザンティン帝国の皇帝ゼノンが、エデッサの学校を閉鎖し、かれらは迫害を受けるようになった

 そこで、エデッサの学校の学頭バルサウマはネストリウス派のキリスト教徒をひきつれてササン朝ペルシアの領内に入った
 彼らは、ビザンティン帝国と争っていたペルシアの王ピールーズの信頼を得て、ペルシアに居住することを許された

・彼らは、ニシビスに学校を開き、ペルシアにおけるネストリウス派の活動の中心とした
 ネストリウス派の伝道者は中国にまで達した

・キリスト教神学を擁護するため、キリスト教神学の基礎としてギリシア哲学があった
 ネストリウス派はビザンティン帝国のギリシア正教会に迫害されていたから、その公用語であったギリシア語をすてて、自分たちの教会儀式も土着のシリア語で行い、シリア語に訳された聖書、神学書、哲学書を用いた
 その結果として、アリストテレスの哲学などがシリア語でローマ帝国外の西アジアの地に伝えられることになった
 同様にギリシア哲学と分離していなかったギリシア科学もシリア語訳されて入っていった
 医学、天文学、錬金術などの書物がシリア語訳された

ジュンディー・シャープール
・シリア化された科学は、ペルシアのスーサ近郊のジュンディー・シャープールに移っていく

 ギリシア文化の愛好者であったペルシアの君主ホスロー1世アヌーシーラワーンが531年に即位すると、アレクサンドリアのムーセイオンに模した研究所をつくった
 これに付属病院や天文台を設置して、医学、天文学、数学の研究を奨励した
 そこでの教育はギリシア語やペルシア語ではなく、シリア語で行われた
 アテナイを追われたギリシアの学者たちや、インドの学者も受け入れた

●ジュンディー・シャープールの学派がのちのアッバース朝の科学文化の1つの大きな支柱となった

●キリスト教の単性論者
・ギリシアの学問をアラビア文明圏に伝える媒介の役をはたしたもう1つは、キリスト教の単性論者である

 単性論者はキリストが神にして人であることに同意するが、キリストの中で人性は神性に吸収されており、キリストは基本的には1つの性格、すなわち神性しかないと主張する
 単性論者も、カルケドンの宗教会議(451年)において異端とされ、正教会から追放された
 彼らもシリア・メソポタミア地方に出ていった
 彼らは、学校を建てるのではなく、修道院においてギリシア哲学、ギリシア科学を研究し、ギリシアの学術文献のシリア語訳をつくった

●セヴェルス・セポフト
 単性論者の最高の学者は、ケンネシュレーの修道院からでた7世紀後半のセヴェルス・セポフトであるといわれる
 セヴェルス・セポフトはプトレマイオスの「アルマゲスト」のシリア語版の訳者である
 また、「月の相について」「星座について」などの著作やインド記数法についての言及などもある