豊臣秀吉公からは
【身を立てよう】と
【職務に勉励しよう】と
【皇室を尊敬して国民を心ひとつにしよう】
があらわれています。
豊臣秀吉公は尾張の貧しき家に生まれたり。
幼き時より、世に優れたる功名をなさんと志し、十六歳の時、わずかの金を持ち、ただ一人、故郷を立ち出で、遠江の松下加兵衛という武士に仕えたり。
かくて、よく、主人のために、働きしかば、加兵衛に信用せられ、着物や道具の出し入れをする役を言いつけられたり。
されども、仲間の者にそねまれ、やがて、故郷に帰れり。
その後、秀吉は織田信長の武勇優れたるを慕い、人を頼みて、これに、仕えたり。
これ、秀吉が身を立つる基なりき。
○
秀吉は、信長に仕えし後も、人に優れて、働きたり。
信長、ある日、明け方より、狩りに出でんとして、「誰かある。」と呼びしに、秀吉は「藤吉郎、これにあり。」と答えて、立ち出でたり。
ある年、清洲の城の塀、百間ばかりも、崩れしことあり。
信長、部下の者に言いつけて、これを普請せしめしに、二十日ばかりをすぐれども、工事はかどらず、よって、改めて、秀吉にその役を命じたり。
秀吉は人夫を十組に分かち、組組に工事を割り当てて、急ししかば、翌日になりて、残らず、出来上がりたり。
秀吉は、常に、かく、職務に勉励せしかば、信長の信用を得て、次第に、重く用いらるるに至れり。
○
秀吉は、おいおいに、立身して、関白、太政大臣となれり。
これより先、国内、戦乱うち続きて、皇室、大いに、衰えたり。
秀吉これを嘆きて、皇室のために、尽くししこと少なからざりき。
秀吉は、京都に聚楽の第をつくりて、これに、おりしが、あるとき、後陽成天皇の臨幸を仰ぎたてまつりたり。
かかる臨幸の儀式は、久しく、絶えたりしことなれば、人々、遠近より来たりて、拝観し、中には、「はからずも、かかる太平の有様を見る事よ。」とて、大いに、喜びたる者ありき。
秀吉は、諸臣一同に、
皇室を尊ばしめんと思い、御前において、これを誓わしめたりき。
太閤秀吉公は祖国愛に溢れていた
【身を立てよう】と
【職務に勉励しよう】と
【皇室を尊敬して国民を心ひとつにしよう】
があらわれています。
豊臣秀吉公は尾張の貧しき家に生まれたり。
幼き時より、世に優れたる功名をなさんと志し、十六歳の時、わずかの金を持ち、ただ一人、故郷を立ち出で、遠江の松下加兵衛という武士に仕えたり。
かくて、よく、主人のために、働きしかば、加兵衛に信用せられ、着物や道具の出し入れをする役を言いつけられたり。
されども、仲間の者にそねまれ、やがて、故郷に帰れり。
その後、秀吉は織田信長の武勇優れたるを慕い、人を頼みて、これに、仕えたり。
これ、秀吉が身を立つる基なりき。
○
秀吉は、信長に仕えし後も、人に優れて、働きたり。
信長、ある日、明け方より、狩りに出でんとして、「誰かある。」と呼びしに、秀吉は「藤吉郎、これにあり。」と答えて、立ち出でたり。
ある年、清洲の城の塀、百間ばかりも、崩れしことあり。
信長、部下の者に言いつけて、これを普請せしめしに、二十日ばかりをすぐれども、工事はかどらず、よって、改めて、秀吉にその役を命じたり。
秀吉は人夫を十組に分かち、組組に工事を割り当てて、急ししかば、翌日になりて、残らず、出来上がりたり。
秀吉は、常に、かく、職務に勉励せしかば、信長の信用を得て、次第に、重く用いらるるに至れり。
○
秀吉は、おいおいに、立身して、関白、太政大臣となれり。
これより先、国内、戦乱うち続きて、皇室、大いに、衰えたり。
秀吉これを嘆きて、皇室のために、尽くししこと少なからざりき。
秀吉は、京都に聚楽の第をつくりて、これに、おりしが、あるとき、後陽成天皇の臨幸を仰ぎたてまつりたり。
かかる臨幸の儀式は、久しく、絶えたりしことなれば、人々、遠近より来たりて、拝観し、中には、「はからずも、かかる太平の有様を見る事よ。」とて、大いに、喜びたる者ありき。
秀吉は、諸臣一同に、
皇室を尊ばしめんと思い、御前において、これを誓わしめたりき。
太閤秀吉公は祖国愛に溢れていた