ほりのすけ国史 (わがくに)の祖国大日本の歴史講義配信

皇紀2679年 世界最高世界最古の皇室を持つ祖国

ヤマトタケルはわが国古代の英雄である。

2019年03月27日 | ヤマトタケルさま
ヤマトタケルはわが国古代の英雄である。
大功労者でスーパースターである。

いまの我が国を築いた
天照大御神や神武天皇陛下や大国主命神様とともに尊敬のお方です。

ヤマトタケルを尊敬している方は皇族、貴族、武将、平民まで古代からいままでたくさんいますね。

尊敬しているし、勇ましいしかっこいいです。

(やまとたける、景行天皇2年 - 43年)は、記紀に登場する皇子である。
ヤマトタケルノミコト(やまとたけるのみこと)とも呼ばれ、諱は小碓尊(命)(おうすのみこと)。

第12代景行天皇の皇子・第14代仲哀天皇の父

皇紀2679年(平成三十一年)

万葉集 わが国現存の最古の歌集で天皇陛下から庶民までの素晴らしい歌集

2019年03月27日 | 万葉集
わが国現存する最古の歌集の万葉集

万葉集とは、7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された、現存するわが国最古の歌集です。

全20巻からなり、約4500首の歌が収められています。作者層は天皇から農民まで幅広い階層に及び、詠み込まれた土地も東北から九州に至る日本各地に及びます。

この時代で庶民の歌集まで入っているのは世界でもなかなかありません。
わが国の度量の広さを感じます。

万葉の歌の詠まれた時代は、仁徳天皇の皇后であった磐姫皇后の歌(巻二の85~89番)と伝えるものがもっとも古いです。
磐姫皇后歌や雄略天皇歌(巻一の1番)などの推古朝以前の歌についての記載もあります。

実質上の万葉時代は、天智天皇や天武天皇の父に当たる629年に即位された舒明天皇以降と考えられ、万葉集最後の歌である巻二十の4516番が作られた759年(天平宝字三年)までの、約130年間といえます。

■書名の由来

「万葉集」という書名の意味は、「葉」は「世」すなわち時代の意であり、万世まで伝わるようにと祝賀を込めた命名と考えられています。

天皇陛下から庶民まで、各階層の人々が詠んだ4500首あまりの歌を集めた日本最古の和歌集である『万葉集』。

その構成はどのようになっているのでしょう。また、誰が編纂したのでしょう。『万葉集』を読むための、あるいはもっと知るための本もあわせて紹介します。

日本最古の和歌集『万葉集』とは

『万葉集』は奈良時代末期に編纂された20巻からなる日本最古の和歌集で、4500首あまりの歌が収められています。いわば、奈良時代とそれ以前に詠まれた歌の集大成です。

歌人としては、天皇陛下、貴族
額田王、柿本人麻呂、
山部赤人、大伴家持など、
宮廷歌人が名を連ねます。
一方で、作者不詳の防人、
農民などさまざまな身分の人の歌も
含まれており、人間性豊かで素朴な表現も多くみられます。

地域的には大和の国が
中心になっていますが、
東国で作られた「東歌」など全国各地方の歌も取り入れられていて、
なかには方言で詠まれた歌もあります。

原文はすべて漢字で書かれており、漢文の体裁をなしています。

編纂当時はまだ仮名文字が作られていなかったため、漢字を意味どおりに
表記している部分と、
漢字の意味とは関係なく漢字の音訓だけを借りて日本語を表記する
「万葉仮名」と呼ばれる表記法も
多く用いられています。

『万葉集』の編者は

それぞれの時代を通して100年以上にもわたって詠まれた4500首あまりにおよぶ歌を、まとめて和歌集として編纂するのは大変なことです。
ひとりの編者が一からまとめあげたとは考えにくく、それぞれの時代ごとにまとめて編集されていたものを、
最終的にひとつに編纂したものと
考えられています。

巻ごとの成立年代を示す史料がないためはっきりと限定はできないものの、詠まれた歌の内容や人物から、次のような区分と編者が推測されています。

巻1の前半は、持統天皇陛下やその時代に活躍した歌人の柿本人麻呂。

巻1の後半から巻2は、元明天皇陛下や
文官の太安万侶(おおのやすまろ)。

巻3から巻15と巻16の一部は
元正天皇陛下や大伴家持。
そして、それ以降巻20までは
大伴家持が編集に関係したと考えられています。
いずれにしても天皇陛下や宮廷歌人たちの手により編集がなされました。

巻17以降に大伴家持の歌が多いことや、最後の歌が家持の歌で締めくくられていることから、最終的に完成させた編者は大伴家持です。
天皇陛下の勅撰なのか家持の私撰なのか諸説あります。


『万葉集』の構成は

『万葉集』の各歌は部立てに分けられており、各巻はその部立て、年代、国ごとに配列されています。
部立ては、人を愛する恋の歌である「相聞歌」、死者を悼む歌である「挽歌」、それ以外の「雑歌」の三大部立てで、「雑歌」には旅情や自然を詠んだ歌や、宮廷に関する歌などが含まれています。

巻1は雑歌、巻4は相聞歌、などひとつの巻がひとつの部立てからなっている場合もあるのです。また巻14は、これらの三大部立てを含んでいますが、総題として「東歌」という別名があります。

歌体としては「短歌」「長歌」「旋頭歌」があり、五七五七七の五句からなる「短歌」が4200首あまりで多くを占めます。五七を長く続け、最後を基本的に七音の句で締めくくる「長歌」が260首あまり、五七七を2回くり返す六句からなる「旋頭歌」が60首あまりです。
また、「長歌」の後に1首あるいは数首添えられたものは「反歌」といわれています。

巻ごとの歌数はかなり差があってもっとも少ないのは巻1の84、もっとも多いのは巻10の539です。

歌が作られた120年間を
「万葉の時代」といいます。
それは大きく4期に分けられます。

629年の舒明天皇陛下即位から672年の壬申の乱までを「初期万葉」、
その後710年の平城京遷都までを「白鳳万葉」、
遷都以降729年の天平元年までを「平城万葉」、
天平元年以降759年までの聖武天皇時代を「天平万葉」とそれぞれ区分されています。

わが国それぞれの時代に代表歌人がおり
、歌風もそれぞれの時代の特色を
感じることができるでしょう。

皇紀2679年(平成三十一年)


神道の教えを継承している徒然草「吉田兼好貢献者」

2019年03月24日 | 吉田兼好
われら日本三大随筆の一つ「徒然草」

神道の教えを継承している書物のひとつです。

学生時代、国語の授業や日本史の授業に必ずといっていいほど登場する「徒然草」。
今のわれら日本人にもきっと役立ちます。



「徒然草」は鎌倉時代末期、吉田兼好によって書かれた随筆です。

序段を含め244段から構成されていて、上巻と下巻に分かれています。
現在の日本語の表記体系の元となる
「和漢混淆文」と
仮名文字の両方で書かれているのが特徴です。

清少納言の「枕草子」、鴨長明の「方丈記」とともに、「日本三大随筆」として評価されています。

徒然草のあらすじ

吉田兼好が気の向くまま思いつくままに、
生き方や友人、
恋愛、
神道修行、
自然などについて、
楽しく面白く綴っています。
「徒然」とは、特にやるべき事がなく、手持ち無沙汰な様子を表します。
「草」は植物でなく、ノートを表します。

「つれづれなるまゝに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」(『徒然草』から引用)

この有名な序段の文は、
「特にやるべき事もなく退屈だったので、1日中硯(すずり)に向かって、心に浮かんでくるいろいろな事を
ただ書いていると、
妙に夢中になって気が変になりそうだ」という意味です。

この前書きから始まります。

神道に基づきつつ吉田兼好の色で世の中のさまざまな事柄について書き綴られています。



吉田兼好について

本名は卜部兼好(うらべかねよし)。
鎌倉時代末期から南北朝時代に生きた官人、歌人、随筆家です。

吉田神社の神職である兼顕の息子として生まれました。神祇官を輩出する神職の家柄。自身は堀川家の家司となり、その後六位蔵人に任命されます。

和歌を詠んだりしていたそうで、「徒然草」もこの頃に書かれとされています。二条為世に和歌を学び、その才能は二条為世門四天王の一人となるほどのものでした。

神道の教えを継承している徒然草は
いろいろ導いてくれる人生の書物になる素晴らしいものです。

皇紀2679年(平成三十一年)


初代神武天皇陛下は神様の天照大御神様の子孫

2019年03月24日 | 神武天皇陛下
ニニギノミコトが天孫降臨で日向に降り立つ

皇室は神様の子孫=初代である神武天皇も神様の子孫である。

神様「血筋」系譜

天照大神(あまてらすおおみのかみさま)

アメノオシホミミ

ニニギノミコト

ホオリノミコト(=山幸彦)

ウガヤフキアエズ

神武天皇陛下

ニニギノミコトが天孫降臨で
降り立ったのが日向(現・宮崎県)で、神武天皇陛下までの世代は日向にいました。

神武天皇陛下が
「ご先祖様がこの地に降り立ってから長い時が過ぎたが、まだ日本の全てを統治していません。私は東にあるという美しい土地へ向かい、そこで天下を治めたいと思います」

東征を始めたのがきっかけで、勢力圏が広がっていったのです。

天孫降臨から神武天皇陛下が
東までは時間があります。


天照大神から剣や八咫烏が送られた。

神武天皇陛下が激しい戦いを勝利して大和(奈良の地)にたどり着き、宮殿を築いたのが橿原神宮の由来です。

東征の最中で天照大神から
剣や八咫烏が送ってもらい強力支援がありました。

大和の橿原で都を開いたのがはじまりです。

われら日本人として大事な国生みの話

2019年03月23日 | 神武天皇陛下
われら日本人として大事な国生みの話である。

国産み(くにうみ)とは、日本の国土創世譚を伝える神話である。

イザナギさまとイザナミさまの二柱の神は天の橋にたち矛で混沌をかき混ぜ島をつくる。


伊邪那岐神様(イザナギさま)・伊邪那美(イザナミさま)の二柱の神は、別天津神(ことあまつがみ)たちに漂っていた大地を完成させるよう命じられる。

別天津神たちは天沼矛(あめのぬぼこ)を二神に与えた。

伊邪那岐さま・伊邪那美さま
は天浮橋(あめのうきはし)に立ち、天沼矛で渾沌とした大地をかき混ぜる。

このとき、矛から滴り落ちたものが積もって淤能碁呂島(おのごろじま)となった。 淡路島のこと。

二神は淤能碁呂島に降り、結婚する。

まず淤能碁呂島に「天の御柱(みはしら)」と「八尋殿(やひろどの、広大な殿舎)」を建てた。

と申しました。

伊邪那岐さまは左回りに、伊邪那美は右回りに天の御柱を巡り、

出会った所で伊邪那美が「あなにやし、えをとこを」と伊邪那岐を褒め、伊耶那岐が「あなにやし、え娘子(をとめ)を」と伊邪那美を褒め、二神は性交する。
しかし、女性である伊邪那美の方から男性の伊邪那岐を誘ったために、ちゃんとした子供が生まれなかった。

二神は、最初に産まれた子供である水蛭子(ひるこ)を葦舟に乗せて流してしまい、次にアハシマが産まれた。

水蛭子とアハシマは、伊邪那岐・伊邪那美の子供の内に数えない。

二神は別天津神のもとに赴き、なぜちゃんとした子供が生まれないのかを聞いた。

すると、占いによって女から誘うのがよくなかったとされた。

そのため、二神は淤能碁呂島に戻り、今度は男性の伊邪那岐から誘って再び性交する。

島生みに続く