ほりのすけ国史 (わがくに)の祖国大日本の歴史講義配信

皇紀2679年 世界最高世界最古の皇室を持つ祖国

徳川宗春の『温知政要』

2019年09月17日 | 大和魂と大和心
徳川宗春の『温知政要』

21か条の内容は

上に立つ者は「慈」と「忍」を
心がけよう。

倹約のしすぎは人々を苦しめる。
←!?自分の好みを下の者に押し付けてはいけない。

規則を増やしすぎると違反者が増えるだけ。←!?人は適材適所。

個性を生かして能力発揮。
精神圧迫しないで元気にいこう


徳川宗春の信条は、

「政治で大事なのは締め付けじゃなくて、愛だでよ」

この政策『温知政要』を
必死な思いで質素倹約に耐えていた将軍・吉宗にも贈呈した

幕府が質素倹約を掲げていたが

尾張名古屋の
宗春はどこ吹く風と言わんばかりに、とんでもないことを次々にやらかします。

「ぜいたく禁止」により制限されていた芝居の興行を奨励。

年に1回だった芝居興行を

年に100回に爆増

禁止されていた藩士の芝居見物も解禁。

さらに「風紀が乱れる」
として認められていなかった
遊郭の営業を公認。

結果、名古屋には3つの
遊郭ができました。

さらに
「倹約のため派手な娯楽は控えろ」と幕府が命じていたにもかかわらず、盆踊りなどのお祭りを盛大にやりました。

ある盆踊りに至ってはなんと1カ月半も盆踊りが続けられたというからスゴイ。

また、女性や子どもの夜間外出を解禁した。
夜でも女性や子どもが安心して町を歩けるように多数の提灯を城下に設置する、なんてこともしたそう。
ホント、至れりつくせりです。

よく遊び、よく働く。

幕府の締め付け政策に対し
宗春は解放政策をとることで
人々に楽しみと生きる元気を与えた

全国から

「今名古屋が熱いぜ」

と全国から歌舞伎役者や遊女、
また商人や職を求める人がドシドシやってきて名古屋の人口は激増、

空前の名古屋バブルが巻き起こりました。

その繁栄ぶりは
「名古屋の繁華に興(京)がさめた」とまで言われるほどだ

徳川宗春時代の華やかな名古屋を
描いた『享元絵巻』より。

盛り場は遊郭や芝居小屋を
目当てに訪れた人々でごったがえした。

飲食店や見世物小屋もたくさん

そのほか徳川宗春は“治安のよい町づくり”にも力を注いだ。

藩士を巡回させて町の警備にあたらせるなどしました。

おもしろいかっこうの宗春公ですが、中身もイケイケでしたね。

「大和魂(大和心)」とは、神代から続くわれら日本人の精神、われら日本の心のこと

2019年07月23日 | 大和魂と大和心
「大和魂(大和心)」とは、
神代から続くわれら日本人の精神、
われら日本の心の全体像ををさしますね。

 わが国の1万年つづいた縄文文化にはぐくまれた自然と共に生きる心、
すべてのものに神が宿るという神人一体の心も「大和魂(大和心)」である。

古事記に記された、「清く明き心」この心も「大和魂(大和心)」である。

 聖徳太子国父の「和を以て貴しとなす」と言った「和」の心、
これも「大和魂(大和心)」の重要な要素である。

 「大和魂」という言葉が
初めて出てくるのは、源氏物語の「少女」の帖においてである。
主人公の光源氏の息子の夕霧は、高位の貴族の息子が当然つくべき地位ではなく、低い地位から官位につく。
低位の貴族のように大学に行かせて勉強させることを光源氏は決断する。
大学では、唐の学問が教えられた。
唐の学問(漢才)を身につけた上で、
我が国の実情にあうように
応用できる智恵才覚を
「大和魂」という表現で表している。

 「才(学問)をもととしてこそ、
大和魂の世に用ゐらるる方も
強うはべらめ。」
 (学問[=漢才]を基本と
してこそ実務の才
[=大和魂=和魂]が
世間で重んじられるという
ことも確実というものでございましょう)

 明治時代に欧米の技術を取り入れたが、日本古来の伝統や和を尊ぶ心、
以心伝心の心を忘れてはならないという意味で「和魂洋才」
と表現した問題意識を平安貴族はもっていたのである。

 源氏物語を書いた清少納言
(966年~1025年) は、
「和魂漢才」こそ大切である
という文脈の中で
「大和魂」という言葉を使っているのである。
唐の学問に対して、日本の伝統文化、日本の心こそ大切であるという意識があったことになる。

 「大和心」の初出は、
文章博士・大江匡衡(952年~1012年)と百人一首歌人であるその妻の赤染衛門の問答に見られる。

大和魂(大和心)=日本人としての歴史・伝統にはぐくまれた豊かな心 である。

われら日本の心こそ大和魂、大和心ですね。