ほりのすけ国史 (わがくに)の祖国大日本の歴史講義配信

皇紀2679年 世界最高世界最古の皇室を持つ祖国

ニニギノミコトさま御結婚のつづき

2019年09月05日 | 西郷従道公
ニニギノミコトさま

天照大御神さまの孫で
神武天皇陛下の曽祖父である。


御結婚したあと

イワナガヒメの一件もありましたが、

ニニギノミコトさま

とコノハナサクヤヒメは、めでたく結婚しました。

そして“八尋殿(やひろでん)”という大きな御殿(ごてん)で、
初めて二人だけの時間を過ごしました。

しかし、夫婦としてともに過ごすことができたのはこの一夜だけでした。

一夜明けると、
ニニギノミコトさまは反乱を
くり返す人々をたおすための旅へと出かけてしまったのです。

時が過ぎ、やがて、戦いに勝ったニニギノミコトが帰ってきました。

この時
コノハナサクヤヒメのお腹(なか)の中には、
ニニギノミコトさまとの間にできた赤ちゃんがいました。

「あなたが無事に戻ってきたことと、あなたの子どもがさずかったことは、言葉にできないほどうれしく思います」

久しぶりに再会した
ニニギノミコトにコノハナサクヤヒメは言いました。しかし、ニニギノミコトから返ってきた言葉は意外なものでした。

「何をいいますか。あなたとはたった一夜だけ夫婦として過ごしただけではありませんか」

「何をおっしゃいます。いとしいあなたの子だからこそ、たった一夜でさずかったのです」

コノハナサクヤヒメは、
ニニギノミコトの帰りを
今か今かと待ち続け、
その間にお腹の中でスクスクと育つわが子の成長を喜びに感じていたのです。

だから、ニニギノミコトがいないさびしさにも耐(た)えてこられたのです。

愛するニニギノミコトから
疑(うたが)われたコノハナサクヤヒメは、とても悲しくてたまりませんでした。
そしてお腹の子が
ニニギノミコトの子であることを
明らかにするために
自分と生まれてくる子までをも危険にさらす覚悟(かくご)を決めたのでした。

「コノハナサクヤヒメ
あなたはたった一夜で子どもが
できたと言いますが、そんなはずはない。その子はきっとほかの国つ神(くにつかみ)の子だろう」

ニニギノミコトのこのひと言はコノハナサクヤヒメの心をとても傷つけました。

コノハナサクヤヒメは

「私はこれからお産の準備をします。もしあなたが言うとおり、
生まれてくる子どもがほかの国つ神の子であるなら
無事に生まれてはこないでしょう。

しかし、あなたの子であるなら
たとえ火の中でもきっと無事に生まれてくることでしょう」

こう告げると、
コノハナサクヤヒメは出口のない大きな産屋(うぶや)をつくらせました。
そして中へ入ると、
まわりを土で塗(ぬ)りふさいでこもってしまいました。

やがて出産の時が近づきました。

するとコノハナサクヤヒメは
産屋のまわりにみずから火を放ったのです。そして
燃えさかる炎の中で三人の男の子が生まれました。

三人の名は、火が燃えさかる時に
最初に生まれた子がホデリ(火照)。

次に火の勢いがより強くなった時
に生まれた子がホスセリ(火須勢理)。

最後に火がおとろえてきた時に生まれた子どもがホオリ(火遠理)です。

のちに、ホデリは海幸彦、ホオリは山幸彦と呼ばれるようになりました。

こうしてコノハナサクヤヒメは
炎の中で無事に三人の子どもを生み、
身の潔白(けっぱく)は証明されました。

ニニギノミコトさまも深く反省しました。

西郷従道は西郷隆盛の弟で明治時代で我が国に貢献

2019年07月18日 | 西郷従道公
西郷従道は西郷隆盛の弟で明治時代で
我が国に貢献

従道は天保14年(1843)に
薩摩藩(現在の鹿児島県)の西郷吉兵衛の三男として誕生しました。
長兄に維新三傑の一人である西郷隆盛、また従兄には同じく
明治政府で要職を歴任した大山巌がいます。
すぐ近所には大久保利通も住んでおり、従道は後の明治政府の重鎮達に囲まれながら育ちました。

嘉永5年(1852)に両親と死別してからは、兄の隆盛が親代わりとなり、
思想面においても大きな影響を受けたようです。

有村俊斎の薦めで薩摩藩主島津斉彬に出仕、茶坊主となりますが、文久元年(1861)に還俗。
隆盛も参加する薩摩藩内組織の精忠組に加わり、尊王攘夷運動に打ち込みます。

藩主の父として実権を握っていた国父・島津久光がこれを鎮圧します。
これが有名な寺田屋事件です。
結果、従道はまだ年が若かったために、帰藩の上、謹慎処分となりました。

薩英戦争が起こると謹慎も解け、従道は決死隊に志願します。

戊辰戦争にも参加し、鳥羽・伏見の戦いで銃弾が体を貫通するほどの重傷を負いながらも全国各地を転戦しました。

明治2年(1869)に従道は
山県有朋とともに渡欧しました。

当時の欧州の軍隊について視察・研究を行います。
帰国後、従道は明治政府においてトントン拍子に出世しました。

兵部権大丞、陸軍少将、陸軍中将など重要なポストにつぎつぎと就いていきました。また台湾出兵では指揮を執り、台湾征討を断行。

西南戦争勃発時は山県有朋の留守中、陸軍卿代理として職務を果たします。
その後近衛都督、参議、陸軍卿などを務め上げます。


内閣制度発足時、
従道は初代海軍大臣に任命されます。

有能な山本権兵衛を
海軍省官房主事に抜擢し、
海軍拡張に辣腕を振るわせたのは従道でした。
従道は信頼する部下に一切の実務仕事を任せ、自分は口を出さずに責任を取るという姿勢を持った人物だったようです。

それにより山本は才能をいかんなく発揮し、海軍参謀機関独立の実現や戦艦の増強などを行いました。
従道のもと山本が整備した日本海軍は、

その働きで日清・日露戦争において
わが日本に勝利をもたらします。

東郷平八郎が有名なバルチック艦隊を破ることができたのも
海軍大臣の従道と山本の貢献は大きいです。

また総理大臣も務めた
伊藤博文公らがロシアとの妥協
の道を探る中、
日露戦争前からロシアとの対立は避けられないことを察知し、英国との同盟を主張したのも従道です。
結果、日露戦争時にイギリスは好意的中立を保ち、
軍事や経済的援助などでわれら日本の勝利を助けることになりました

陸軍・海軍の創設・整備、台湾出兵、日清・日露戦争戦勝への貢献など
さまざまな功績を上げた従道は、
明治27年(1894)に海軍
大将に任命されました。

四年後には海軍軍人として初の元帥となります。
内閣総理大臣こそ、兄・隆盛が
逆賊であることを理由に断り続けたものの、文部卿、内務大臣などを歴任しました。
西郷従道はわれら日本の明治期に多大な貢献をしました。
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