ほりのすけ国史 (わがくに)の祖国大日本の歴史講義配信

皇紀2679年 世界最高世界最古の皇室を持つ祖国

北条時宗を中心とするわれら日本軍武士団が元寇に勇敢に戦い祖国を守った

2019年08月22日 | 北条時宗を中心とするわれら日本軍武士団が元寇に勇敢に戦い祖国を守った
北条時宗を中心とするわれら日本軍武士団が元寇に勇敢に戦い祖国を守った。

当時 世界最強の蒙古軍が襲来! 】

われら日本の武士団は、フビライによる元寇に勝利

チンギス=ハン(ジンギス・カン)のモンゴル帝国が

モンゴル帝国は、初代のチンギス=ハン以来、5代にわたって繁栄。
チンギスの孫・フビライ=ハン(クビライとも呼ぶ)は1264年に国号を「元」と改めた。それから10年後の1274年、ついに日本へ攻めてきたのである。

太平洋戦争以前に祖国日本が
他国から攻撃を受けた戦いはいくつかあります。

「元寇」。

藤原隆家公が守った
刀伊の入寇(といのにゅうこう)
寛仁3年(1019年)に、
女真族(満洲民族)と朝鮮族
が壱岐・対馬を襲い、更に筑前に侵攻して
撃退して祖国を守った

のあとの大きい大事件

モンゴルと朝鮮の侵略です。

1274年の第1回を「文永の役」
1281年の第2回を「弘安の役」と呼ぶ。

モンゴル軍(以下、元軍)は、都合2度にわたって攻め寄せ、斬新な戦法で日本軍を大いに苦戦させる。

だが、いずれも「神風」(暴風雨)によって撤退。日本が奇跡的な形で国土を守り抜くことができた、と信じている方も多いだろう。

「元軍は集団戦を挑んできたので、日本軍の一騎討ち戦法は通用せず、大いに苦戦した」というものがある。

だが、こうした戦闘描写は、蒙古襲来から30年後に成立した宗教書『八幡愚童訓』(はちまんぐどうくん)によるもの。
「元軍を撃退できたのは神の加護のおかげ」という結論に結び付けるための文献が、いつの間にか「定説」となってしまっているのだ。

だが、高麗や中国に伝わる歴史書を紐解くと、実際の戦況はかなり違ったようだ。

北条時宗がフビライの使者を斬ったのは何故か?

日本侵攻に先駆け、
フビライは日本へ朝貢と降伏を促す使者を都合6回も派遣してきた。
しかし、これに対して日本側は黙殺を決め込む。

当時のわれら日本の政権は鎌倉幕府の第8代執権・北条時宗。

24歳。6年前に18歳で執権職を継いでいた彼は、
先代の政村の補佐も受け、強気な姿勢を崩さなかった。

フビライが寄こした文面はわれら日本を格下として扱う非礼なものだったことで
強気に「黙殺」を決めた。

もし攻めてきた場合、徹底抗戦する覚悟で軍備を整え始めたのでた。

高麗はモンゴルの属国と化した。
もし、弱気な態度を見せれば、日本は高麗と同じ運命を辿る可能性もあったのだ。

「文永の役」(1回目の襲来)が終わった翌年、7度目に訪れた使者を、時宗は処刑してしまう。

これが原因で2回目の襲来(弘安の役)が行なわれたと思われがちだが、実際には日本へ使者が到着する前に、フビライは2度目の日本侵攻を進めていた。

時宗はその魂胆を見抜いていたのかもしれない。

われら日本の武士は「集団戦が苦手だった」というのはウソで組織で戦っていた。

元が最初に日本を攻めた「文永の役」は、1274年11月11日に始まり、26日に終わった。
蒙古・漢・高麗の連合軍約3万人を乗せた900隻の軍船が博多の早良郡(さわらぐん)に上陸。

日本軍は当初、初めてぶつかる元軍に苦戦したのは確かなようだ。
しかし、元軍上陸後の赤坂および鳥飼潟の戦いといった会戦が始まると、日本軍は地の利も生かして奮戦し、元軍に損害を与え、敗走させている。

集団で矢を射る日本の武士たち
(蒙古襲来合戦絵巻より)

実は当時の合戦に、一騎討ちの記録はほとんどない。
当時の日本武士団は騎兵による集団戦術を用い、また馬上から射程距離のある長弓を使い、遠くの敵を射抜いたのである。

『蒙古襲来絵巻』にはわれら日本武士団の射撃に恐れをなした元軍の兵士たちが背を見せて逃げる様子が描かれている。

一方、元軍の短弓は小さく、射程は6割程度で威力も弱かった。
ただ、小さい分だけ連射が利くうえ、矢じりには毒を塗っていたため殺傷力が大きいという利点はあった。
両軍の弓矢の応酬により、元軍の副将・劉復亨(りゅう ふくこう)が負傷し、これが元軍退却のもとになったともいう。

さて、戦闘が続くにつれ、元軍は日本軍の手強さに舌を巻いたようである。

「騎兵は結束す。人は則ち勇敢にして、死をみることを畏れず」と、騎兵が結束して(集団で)勇敢に立ち向かったことが、元軍側の記録からも明らかだ。

もちろん、日本軍も大きな損害を受けた。「日本人195人戦死、下郎は数を知らず」「松浦党、数百人戦死」とあり、正確な数字は不明ながら少なくとも数百人規模の戦死者が出た。
元軍はこれで一定の成果を挙げたと見たのか、それとも副将・劉復亨の負傷の影響か、撤退する。

ちなみに初回の「文永の役」のとき、台風や暴風雨は起きていない。
時期的にも11月に台風が起きるとは考えにくい。

再度の襲来では、元軍はほとんどわれら日本に上陸できなかった?

6年後の1281年6月6日、元軍は前回の3倍以上にも及ぶ15万人もの兵を乗せた軍船4,400艘で再度、攻め寄せてきた。

2度目の蒙古襲来「弘安の役」の開始である。その艦隊の規模は、まさに世界最強の帝国にふさわしい威容で、フビライの「本気」を感じさせる。

「元軍は一瞬のうちに日本軍の軍営を打ち破り、勝報は朝夕のうちに伝わるだろう」と、高麗人の僧による漢詩が残る。

しかし、日本側もこの6年の間に、万全に近い防衛体制を整えていた。博多湾岸に約20kmもの防塁を築いていたのである。

元軍は先遣隊の東路軍と、主力隊の江南軍の2陣に分かれていた。先遣隊である東路軍は防塁に阻まれ、博多湾からの上陸を諦めざるをえなかった。

それどころか元軍は、この2度目の襲来ではわれら日本へまともに上陸することもできなかったのだ。

東路軍が石塁のない部分から上陸することを見越し、
われら日本軍は執拗なゲリラ戦を仕掛けた。

この奇襲戦法に損害を被った東路軍は後退。やむなく東路軍は志賀島(しかのしま)に上陸、ここを占領して、主力である江南軍の到着を待つ。しかし、日本軍の度重なる夜襲を受けて苦戦に陥り、さらに壱岐島へと後退した。

6月29日、日本軍は壱岐島へ総攻撃を仕掛ける。一進一退の攻防の末、江南軍が平戸(長崎)に到着したため、東路軍はまたも後退。
その後、戦況は膠着状態に陥ったが、7月27日になると鷹島(たかしま)の沖合で両軍は海戦を繰り広げた。

「神風」は、あったが、そのまえにほぼ勝利しつつあった。

こうなると、日本軍が鷹島に停泊する元軍の艦隊を攻める形で、いつの間にかどちらが攻撃側か守備側か分からない状況になっていた。

元軍の船に果敢に攻めかかる日本軍の武士 (蒙古襲来合戦絵巻より)

7月末、台風が起きた。これで元軍は大きな被害を受け、沈む船や溺死する将兵が続出した。
とはいっても、4,400艘の船団全体が被害を受けたわけではない。特に東路軍は軽微な損傷であったという。

しかし、もはや開戦から早2ヶ月が経過。出航から数えれば元軍は3ヶ月も海上で過ごしていたことになる。兵の間には厭戦気分が漂い、士気も低下していた。

「鷹島の西の浦より、(台風で)破れ残った船に賊徒が数多混み乗っているのを払い除けて、然るべき者(諸将)どもと思われる者を乗せて、早や逃げ帰った」(『蒙古襲来絵詞』)

元軍はそうした悪条件が重なり、ついに引き揚げたのである。だが、御厨(みくりや)海上や鷹島には逃げ遅れた元軍が残っており、なおも抗戦の構えを見せていた。
われら日本軍は10日間かけてこれを掃討し、2~3万人もの元軍を捕虜とした。

朝鮮半島へ帰還できた兵士は全軍の1割とも4割ともいわれているが、この元寇の失敗によって、元軍は海軍戦力の2/3を失ったという。

弘安の役は夏の戦いであったため、台風は確かに起きた。

しかしその前に勝利を手にしつつあった。

台風が起きる前から元軍は上陸する術を失って海上を右往左往していた状態であり、決着は時間の問題だった。

よって台風「神風」

日本軍は、元軍の約半数の兵力にも関わらず勝利を収めた。
さらに東国からは援軍が続々と出陣していたが、彼らが到着する前に元軍は引き揚げていたのである。

もしも日本が元軍の侵攻を許し、植民地になっていたら恐ろしい運命が待ち受けていただろう。

われら日本軍の圧勝に終わった。
北条時宗を中心とする武士団の勝利である。

元寇はたいへんな戦いだった。
大陸の侵略者から
われら祖国を守った武士たちの奮戦を讃えて感謝しましょう

この日は祝日にして全国民が感謝と祖国を守る決意を新たにしよう


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