本業は内科医と小児科医だった
宣長先生は28歳の時に郷里の松坂で
医師として開業して以来、71歳で亡くなるまで、内科と小児科が専門の町医者として働き続けました。
有名になり、門弟が増えれば収入も多くなりましたが、その分支出も増えたため、医師として働き続けなければなりませんでした。
ろ 詠んだ和歌は一万首以上
かつて松坂の町では、夕暮れの薄暗くなる時刻のことを「宣長先生の歌詠み時」と呼んでいました。
それほど彼の歌好きは有名で、生涯に詠んだ和歌の数はなんと一万首を数えます。研究ばかりでなく、
自ら創作をおこなう文化人でした。
は 二次創作まで手がけるほど『源氏物語』が好きだった
彼の『源氏物語』への思いは、単に研究対象というだけではなかった。
「紫文要領」という源氏物語に
関する重要な論文を完成させたの
と同じ年に、
光源氏と六条御息所との馴れ初めを描いた二次創作まで執筆しているのです。
このとき宣長は34歳。
前年に11歳年下の奥さんを迎えたばかりでした。
に 独自のの衣装を着こなすおしゃれ
さまざまなことにこだわりがあった宣長は、衣服でも独自性を発揮しています。
通常、医師の正装は十徳とよばれる衣服ですが、宣長は講義や歌会で
独特の居士衣を着用したと記録にあります。
これは後年、宣長の書斎の名前から
「鈴屋衣」と呼ばれるようになり、
現存している肖像画でも
彼はこの「鈴屋衣」を着用しています。
ほ 賀茂真淵先生が師匠だった
本居宣長大功労者の師は
江戸の国学者で国学四大人のひとりにも数えられる
賀茂真淵先生です。
師弟と言っても対面したのは1度きりですが、そのほとんどは書簡による
深い交流でした。
『古事記』の研究にあたるにはまず
その時代の言葉を知らなければならず、それには『万葉集』を知るのが良いというのが、賀茂真淵先生の教えでした。
そこで宣長は、書簡で真淵から主に『万葉集』についての教えを受けます。
また、宣長先生の随筆集『玉勝間』には、「良い考えが出来たら、師の説と違っていてもはばかる必要はないと教えられた。そこがわが師の優れた点のひとつである」という意味のことも書かれています。
へ お土産は鈴が多かった
宣長先生は鈴の収集家としても有名でした。自分の書斎に鈴屋という名前をつけるほど鈴が好きだった彼のために、多くの門人や知人が鈴を贈っています。
石見浜田藩主の松平康定から贈られたものは有名です。
国学を好んでいた康定は、伊勢参宮の際に松坂に立ち寄り、宣長から『源氏物語』の講義を受けました。
その手土産として贈られたのが駅鈴で、隠岐の島に伝わる鈴をもとにしてわざわざ鋳造させたものでした。
宣長先生は28歳の時に郷里の松坂で
医師として開業して以来、71歳で亡くなるまで、内科と小児科が専門の町医者として働き続けました。
有名になり、門弟が増えれば収入も多くなりましたが、その分支出も増えたため、医師として働き続けなければなりませんでした。
ろ 詠んだ和歌は一万首以上
かつて松坂の町では、夕暮れの薄暗くなる時刻のことを「宣長先生の歌詠み時」と呼んでいました。
それほど彼の歌好きは有名で、生涯に詠んだ和歌の数はなんと一万首を数えます。研究ばかりでなく、
自ら創作をおこなう文化人でした。
は 二次創作まで手がけるほど『源氏物語』が好きだった
彼の『源氏物語』への思いは、単に研究対象というだけではなかった。
「紫文要領」という源氏物語に
関する重要な論文を完成させたの
と同じ年に、
光源氏と六条御息所との馴れ初めを描いた二次創作まで執筆しているのです。
このとき宣長は34歳。
前年に11歳年下の奥さんを迎えたばかりでした。
に 独自のの衣装を着こなすおしゃれ
さまざまなことにこだわりがあった宣長は、衣服でも独自性を発揮しています。
通常、医師の正装は十徳とよばれる衣服ですが、宣長は講義や歌会で
独特の居士衣を着用したと記録にあります。
これは後年、宣長の書斎の名前から
「鈴屋衣」と呼ばれるようになり、
現存している肖像画でも
彼はこの「鈴屋衣」を着用しています。
ほ 賀茂真淵先生が師匠だった
本居宣長大功労者の師は
江戸の国学者で国学四大人のひとりにも数えられる
賀茂真淵先生です。
師弟と言っても対面したのは1度きりですが、そのほとんどは書簡による
深い交流でした。
『古事記』の研究にあたるにはまず
その時代の言葉を知らなければならず、それには『万葉集』を知るのが良いというのが、賀茂真淵先生の教えでした。
そこで宣長は、書簡で真淵から主に『万葉集』についての教えを受けます。
また、宣長先生の随筆集『玉勝間』には、「良い考えが出来たら、師の説と違っていてもはばかる必要はないと教えられた。そこがわが師の優れた点のひとつである」という意味のことも書かれています。
へ お土産は鈴が多かった
宣長先生は鈴の収集家としても有名でした。自分の書斎に鈴屋という名前をつけるほど鈴が好きだった彼のために、多くの門人や知人が鈴を贈っています。
石見浜田藩主の松平康定から贈られたものは有名です。
国学を好んでいた康定は、伊勢参宮の際に松坂に立ち寄り、宣長から『源氏物語』の講義を受けました。
その手土産として贈られたのが駅鈴で、隠岐の島に伝わる鈴をもとにしてわざわざ鋳造させたものでした。