ども( ^_^)ノ yogaとロカボと糖尿病と大腸癌

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きみは特別じゃない

2016-02-20 17:33:41 | 日記





260万回超再生され世界中に拡散した卒業式の
スピーチとは?
伝説の教師が卒業生の門出にあたってどうしても伝えたかったこと



2012年6月、アメリカ・マサチューセッツ州の有名公立高校の卒業式で、同校のデビッド・マカルー教諭が卒業生たちに「きみたちは特別じゃない」と呼び掛けた祝辞がYouTubeにアップされ、またたく間に世界中に拡散した。本連載ではそのスピーチの全訳を3回に分けて掲載する。高校生から親世代、祖父母世代までの心を動かしたスピーチを動画とともに味わっていただきたい。


きみは特別じゃない


ウォン先生、キーオ先生、ノボグロスキー先生、カレン先生、教育委員会のみなさん、卒業生のご家族、ご友人のみなさん、2012年のウェルズリーハイスクールの卒業生諸君、こうしてここであいさつをする栄にあずからせていただいたこと、誇らしく思い、感謝いたします。ありがとうございます。

 さ、じゃあやりますか……卒業式……人生の大きな門出の儀式です。(「結婚式はどうした?」なんて言わないでくださいよ。結婚式は一方的で、どれだけ意味があるかね。あれは花嫁中心の見世物でしょ。いろいろと理不尽な要求を飲まされるのを除けば、花婿はただそこに立っているだけです。堂々と、はい、みなさん、ぼくの花婿入場を見てね、ってこともない。

 花嫁のように父親から相手に引き渡されることもない。名字が変わることもない。男どものタキシードの試着を特集したテレビ番組なんて想像できますか? 父親たちはうれしさと信じられない思いで目を潤ませ、兄弟は隅のほうで小さくなって、うらやましそうにぶつくさ言っている。男にまかせていたら、結婚式なんてね、さんざん先延ばしにしたあげく、ほとんどものの弾みで……フットボールのハーフタイムの間に済ませてしまう……冷蔵庫まで飲み物を取りに行くついでにね。そもそも、失敗の確率もあります。統計を見たら、きみたちの半分は離婚するんですよ。あんな勝率じゃ、アメリカンリーグ東地区でビリですよ。ボルティモア・オリオールズだって、結婚よりはうまくやるんじゃないですか。

 でも、今日のこの式……卒業式ね……卒業式はいつでも意味があるんですよ。明日からはね……ほんと……病めるときも、健やかなるときも、お金で失敗をしても、中年の危機を迎えても、シンシナティの展示会でちょっとかわいいコンパニオンを見かけても、もやもやすることが重なってしだいにこらえ性がなくなってきても、いろんなずれやがまんできないことや何かがあっても、もうハイスクールは永遠に過去のものですからね、ハイスクールの生徒としての自分も卒業証書もね、死がきみたちを分かつまで。

みんなが同じ場にいることに意味がある

 そう、卒業式は人生の大切な門出の儀式です。ちゃんと立会人がいて、象徴的な意味もこめられています。たとえばこの、ゼロからの出発の通過儀礼にぴったりなのがこの、いまいるところ、会場ですよ。いつもなら、こんなありきたりの言い方はどんなことをしてでも避けるのですが、ほら、わたしたちはこうして、文字通り平らなグラウンドにいるでしょう。ここが重要なところです。意味があるんですよ。

 それに、きみたちのその式服……無定形で、みんな同じで、誰が着ても合います。男だろうと女だろうと、背の高い人だろうと低い人だろうと、勉強熱心な人でも怠け者でも、スプレーで肌を小麦色にしたダンスパーティーのクイーンでも、別の銀河から来たXboxゲームの暗殺者でも、みんな着たらまったく同じように見えます。それに、きみたちの卒業証書も……名前のところを除けば、まったく同じです。

 これは全部、そうあるべくしてそうなっているんです。きみたちは誰も特別じゃないから。

 きみは特別ではないんです。特別優れているわけじゃありません。

 U9のサッカー大会でトロフィーはもらったかもしれないけど、中学1年のときの成績表は素晴らしかったかもしれないけど、どこかの太ったパープルダイナソーの着ぐるみや、あのテレビの人気番組『ミスター・ロジャーズ・ネイバーフッド』に出ていたやさしいおじさんやちょっと変わったおばさんみたいな人は会うたびに頭を撫でてくれたかもしれないけど、それに、ママも何度となくあのバットマンみたいにピンチを救いに来てくれたとしても……きみは別に特別じゃないんです。



社会貢献活動を内申点アップの手段にしてしまう
エリート高校生
「どれだけ得するか?」ばかり気にする生存競争の中で


アメリカ東海岸発・世界に広がった卒業式の祝辞の全訳掲載、第2回。アメリカの大学入試は日本ほど厳しくないと思われているが、有名大学に入るためにはあらゆる面で高い内申点をとらなければならず、実績以上に良い評価を得ようとする競争が激化している。マカルー先生の憂慮に耳を傾けよう。


きみが「特別じゃない」証拠はどこにある?


ええ、好き放題させてもらって、だいじにされて、べたべたに愛されて、ヘルメットをかぶらされて、プチプチでぐるぐる巻きにされたでしょう。そう、いろいろとほかにやることがあるだろうに、いい大人が抱っこして、キスして、食べ物を食べさせて、口のまわりをふいてくれて、お尻もふいてくれて、しつけて、教えて、勉強も見て、コーチをして、話を聞いて、相談に乗って、励まして、慰めて、また、頑張ってと言ってくれましたよね。さあ、行ってとつつかれて、おだてられて、乗せられて、お願いもされましたよね。お祝いもしてもらって、機嫌もとられて、ああ、何てかわいいの、とも言ってもらいましたよね。

 そう、わかってるんです。で、たしかに、わたしたちもきみの試合や、芝居や、演奏会や、発表会を見に行ったんですよ。そりゃあもう、きみが会場に入ってきたら、笑顔がはじけて、きみのかわいいおしゃべりのたびに何百人もの人が感心して息を飲みましたよね。ほら、もしかしたらウェルズリーの町の新聞に写真が載ったことだってあるんじゃないですか。そして今日、ハイスクールも征服した……間違いなく、ここにいる人たちはみな、きみたち、この素敵な町の誇りと喜び、あの立派な新校舎から最初に巣立つ人たちのために集まってくれたんですよ。

 でも、自分がどこか特別なんじゃないかとは思わないでください。そうじゃないから。

 その証拠はいたるところにあります。数字ですね。英語の教師でも無視するわけにはいきません。ニュートン、ネイティック、ニー……ニーダムも言っていいのかな、大丈夫?……この三つのハイスクールだけでも、まあざっと、2000人は卒業生がいるでしょう。近所のNで始まる学校だけでもね。国全体では、いまごろ3万7000を超えるハイスクールから320万人以上の卒業生が巣立とうとしています。つまり、3万7000人の卒業生総代がいるんですよ……生徒会長も3万7000人います……美声のアルトも9万2000人くらいいるでしょうか……ふんぞり返った体育会系の人も34万人くらいいるでしょう……アグのブーツとなると、218万5967足くらいそろっているんじゃないですか。

ドナルド・トランプにしたってきみだって
宇宙の中心であるはずはない

 でも、何もハイスクールだけに限ることはないですよね。何といっても、もうさよならしようとしているのですから。だから、こう考えてみましょう。仮にきみが100万人に1人の存在だとしても、この地球には68億人の人がいますから、7000人くらいは同じような人がいることになります。ボストンマラソンのある「マラソンマンデー」にワシントンストリートのどこかに立っていて、目の前を6800人の自分が駆け抜けていくところを想像してみてください。

 それに、ちょっと、もう少し広い世界のことも考えてみましょう。きみたちのこの惑星、言っておきますが、これは太陽系の中心じゃないですよね。太陽系もこの銀河系の中心じゃありません。この銀河系も宇宙の中心じゃない。というか、天体物理学者はわたしたちにはっきりと、宇宙には中心はないと言っていますよね。だから、きみたちが中心であるはずはないんですよ。ドナルド・トランプにしたってね……誰かがそう言ってあげたほうがいいでしょう……まあ、あの髪はちょっとしたものだけど。

「でも、先生」と言いたいんでしょう。「ウォルト・ホイットマンは、きみはきみなりに完璧だと言ってますよ! エピクテトスも、きみにもゼウスのひらめきがあると言ってますよ!」とね。わたしもそれは否定しません。

 そうすると、68億人の完璧な人間がいることになります。68億のゼウスのひらめきがね。わかるでしょう。全員が特別になったら、特別な人はいなくなるんです。みんながトロフィーをもらったら、トロフィーの意味はなくなります。ひそかに、だけどそんなに隠すこともなく行われているダーウィンの言うお互いの競争にしても――わたしが思うに、自分の存在意義がなくなるのが怖くて起こるんじゃありませんかね、死ぬのが怖い、みたいな気持ちがどこかにあって――最近のわたしたちアメリカ人は、ずいぶん損をしていると思うのですが、ほんとうにやったこと以上にほめてもらいたがる傾向があるんじゃありませんか。そういうことをだいじにするようになって――そのために喜んで基準を下げたり、現実を無視したりする傾向がね。

「ベストの学校の一つ」という言い方は
矛盾している

 それが、自分を世の中のより高い地位につけるのにいちばん手っ取り早い方法、あるいは唯一の方法だと思うからか、マントルピースの上に飾ったり、写真に撮ったり、自慢したりできるものを求めるんです。そうなるともはや、自分がゲームをどう闘うかということは関係なくて、勝つか負けるかということでもなくて、学んだり成長したり、それを楽しむということでもない。頭にあるのは「これをやったらどれだけ得するか?」だけなんです。結果的に、貴重な努力も安っぽいものにして、グアテマラに診療所を作っても、目的はグアテマラの人を幸せにすることではなく、ボードウィン大学に入学するための内申書をよくする手段になってしまう。流行病みたいなものですよ。

 その点では、このわれらがウェルズリーハイも免疫はありません……全米3万7000校のうちのベストの学校の一つであるウェルズリーハイスクールにもね……優秀と言っても、もうそれほど優秀じゃない、B評価はもともとのC評価を新たに言い換えただけで、普通のクラスが特別進学クラスと呼ばれるようになってきています。

 それに、「ベストの学校の一つ」と言ったときにお気づきですよね。わたしは「ベストの学校の一つ」と言いました。ということは、自分たちに自信を持っていいわけです。ちょっとは違いがあると思っていいわけです、かすかに、確かめられない程度にではありますが、自分たちは、エリートが何を指すかよくわかりませんが、エリートに入るんだ、ライバルより一歩先んじているんだと思ってもね。でも、わたしの言ったことはロジックが矛盾していますよね。そもそも、ベストは一つしかありません。ベストは、そうかそうじゃないか、どちらかしかないんです。



「いまを生きる」という言葉の意味を
本当にわかっているか?
「人生一度きり」と刹那的で自分勝手な行動に走らないために


アメリカ東海岸発・世界中に拡散した卒業スピーチの最後のパート。損得ではなく学ぶことそのものの喜びを知ってほしい、誰かに見てもらうために山に登るのではなく、山頂の空気を味わい広い世界を見渡すために登ってほしい――生きることの意味を真摯に説く感動的なクライマックス!


いまの自分がどれだけ無知か!?

きみたちがここにいる間に何か学んだことがあったとすれば、それは、教育は何のために行うかということであってほしいと思います。物質的な損得ではなくて、勉強することの楽しさですね。それと、ソフォクレスも言っていますが、知恵を身につけることは幸せの最大の要素だということもね。(2番目はアイスクリームですが……ま、それはどうでもいいですか。)

 あと、自分たちがいかにものを知らないかということも学んでいてくれるといいですね……いまの自分がどれだけ無知かということも……いまは、ですよ……今日が始まりなのですから。これからどこまで到達するかが問題なのです。

 それから、門出に当たり、きみたちが散り散りバラバラになる前に、これから何をするにしても、それが好きだからする、自分にとって大切だからするようにしたほうがいいということも申し上げておきたいと思います。ボルティモア・オリオールズより勝率が悪い結婚の話をしましたが、あんなふうにならないように、わざわざ大好きでもない人と結婚したりしないようにね。簡単に手に入る幸せや上辺だけの物質的な豊かさにひかれたり、自己満足の世界におぼれたりするようなことはしないことです。恵まれた環境に安住しないことです。

 そして、本を読むこと……いつでも本は読んでください……信念として、これだけは譲れないという思いでね。人生に不可欠な栄養分として本を読むのです。道徳的な感受性を育み、守り、それを実践できる人間になるのです。夢は大きく、努力は惜しまず、自分を大切にするのです。大切な人を大切にし、大切なものを大切にする、全力でね。どうか、切迫感を持って、時計の針がカチカチいうたびに残りが少なくなっているという気持ちを持ってそうしてください。始まりのときがあるように、終わりのときも来ます。その日の午後はどんなに天気がよくても、きみ自身はその究極の儀式を味わえる体ではなくなっているのです。


いま立ち上がって、
大切なものを自分で見つけよう


 充実した人生、ひと味違う人生、意味のある人生というのは、自分で築き上げるもので、自分がいい人だからとか、お母さんが出前を注文してくれたからとかいった理由で転がり込んでくるものではありません。

 建国の父たちがたいへんな苦労をして、きみたちの生存、自由、幸福の追求という――この「追求」というのは何とも前向きな動詞だと思いますが――侵すべからざる権利を確保してくれて、だから彼らには、ゴロゴロしながらYouTubeでローラースケートをするオウムなんかを見ているひまはほとんどなかっただろうということも、わかるでしょう。

 最初のローズベルト大統領、あの(米西戦争で)「ラフ・ライダー」と呼ばれたセオドア・ローズベルトは、「たいへんな生き方」に挑戦することを唱道しました。ヘンリー・デビッド・ソローは生活を片隅に閉じ込め、深く生き、その髄をすべて吸い尽くすことを望みました。詩人のメアリ・オリバーは、漕ぎなさい、舟を漕ぎなさい、渦の中へ、激流の中へと言っています。このあたりでも、誰でしたか……忘れちゃったけど……ときどき若い学生に、いまを徹底的に楽しめって発破をかけている人がいますね。言いたいことは同じです。すぐに取りかかろう、いまやるんだ、ということですよね。インスピレーションや熱い気持ちが湧いてくるのを待っているんじゃなく。

 いま立ち上がって、出ていって、探検をして、大切なものを自分で見つけよう、自分の両手でつかみとろう、ということですよね。(そうそう、きみたちが飛び出して、「YOLO」のタトゥーを入れに行く前に、あの流行の短い文句の論理のおかしいところも指摘させてください――きみたちはたったの一度しか生きられないのではなくて、もっと生きられるはずです。人生は毎日ありますからね。あれはYou Only Live Onceではなく、You Live Only Onceとすべきなんですけど……YLOOとしたら、響きも変わってくるから、まあいいかと思っているんですけど。)

無私とは人間が到達できる最高の境地

 ただし、このYLOOという言葉の解釈は、昔から言われている「いまを生きる」という意味もそうですが、わがままを認めてもらう、好き勝手に生きるという意味じゃありません。

 称賛がそうでなければならないように、充実した人生というのも結果でね、ごほうびにもらえるものなんですよ。これは、自分がもっと重要なことを考えているときに転がり込んでくるものです。山に登るにしても、そこに旗を立てようとして登るんじゃなくて、たいへんなことに挑戦してみたいとか、山頂の空気を吸ってみたいとか、遠くまで広い世界を見渡してみたいとか思って登ったときにね。世の中を見渡すために登るのであって、世の中に見てもらうために登るのではないんです。パリに行くのもパリという街に身を置いてみるためであって、行きたい街のリストからまた一つ街の名前を消すためでも、自分も国際人になったと思っていい気になるためでもないんです。

 自分が満足感を得るためではなく、ほかの人たちのため、残りの68億人の人たちのために、自由で、自分にしかできない、人に左右されない生き方をするのです。そうしたら、きみたちにも、人間の経験の素晴らしい、また、おもしろい真実がわかってくるでしょう、無私というのは人間が自分で到達できる最高の境地なんですね。つまり、人生の最高の瞬間というのは、自分は特別じゃないということがわかったときに初めて訪れるものなんです。

 誰もが特別なのですから。

 おめでとうございます。幸運を祈ります。どうか、きみたちの力で、きみたちのために、また、みんなのために、とびきりいい人生を送ってください。

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