AKB48の旅

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四谷三丁目さんへのお返事

2014年12月29日 | AKB
以下コメント欄から引用

最後にご質問を。うたさんのご指摘だと、HKTは受ける要素がないそうですが、管理人さんはどう思われていますか。また、市場導入期の2011年と市場成熟期の2015年とを比較することが是なのか、テレビ収録とライブは差別化すべきか、以上三つをお暇な時お答え頂きたく思います。

以上引用

四谷三丁目さん、コメントありがとうございいます。

例によって「受ける」とは何なのかにもよると思いますが、取り敢えず最初に必要な条件は「関心」ではないでしょうか。愛の反対語は無関心とは良く言ったもので、関心を持たれない限りは何も始まらない。受けることもない。

では関心を持たれるためにはどうすれば良いのか。そこには正解はないのかも知れません。秋元氏は「刺さる」ことと、かねてから語ってますが、それは仕掛ける側の発想で、私的には、それは見えない壁に気づかせる働きかけ、つまりはここでもキーワードは「気づき」なんでしょう。逆の視点だと、意識されてない壁を乗り越える動機付け、とでも表現すれば良いのでしょうか。

そこを越えることがまずは必要で、その次にようやく「受ける」という概念が有効になるように思います。もしくは、正にこの「刺さる」ことが「受ける」と等価になるのかも知れません。

と言うわけで、どうやら「受ける」というのは複数の概念の混合のようにも思えます。うたさんのコメントを読むと、どうやらこの後者の意味で「受ける」を使われてるようですので、以後の議論をこちらで進めます。

「2011年のAKBのパフォーマンス」については、私も過去ログに書いてますが、確かに素晴らしいものでした。けれども、ではそれが「受ける」に繋がったかというと、私の知る限りそのような感触はありませんでしたし、不肖、私自身がまったく受けてなかった、その好例となってしまってます。つまりは、少なくとも素晴らしいパフォーマンスが「受ける」とは限らないどころか、もしかして両者はほとんど無関係かも知れません。

HKTが「受ける」つまりは刺さる、気づきを惹起させるために必要なものは、やはり秋元氏が常に公言し試みてるように、メンバー個々人の魅力なんでありサプライズなんではないでしょうか。このイシューに関して、秋元氏以上の経験と見識を持つ人はいないと思います。

次に2011年と2015年の比較ですが、比較という行為自体はいかようにもできると思いますが、あらゆる変数が異なってる以上、それは有意なものにはならないと考えるのが常識的かと。

「テレビ収録とライブ」も同様で、こちらは変数が分かりやすいんですが、議論を単純化してと断った上で、一般論として最大の変数が、テレビが受動的で無関心、ライブが能動的で関心となると思います。これは「差別」ではなくて「区別」になるでしょうね。


ついでで申し訳ありませんが、以下、kazuさんのコメントへのお返事。

「NMBを名指し」の件ですが、正にお察しの通り、SKEとの対比がこっそりとですがありました。内部的には山本さんの存在はもちろんのこと、横山さんとの太いパイプというのがあるかと思います。が、それ以上に吉本という環境が大きいかなと。そこに漂う夏まゆみ氏的な要素(紛い物かも知れませんが)とともに、指原さんの歴史を見れば分かるように、有能な大人(先生)との出会いは、しばしば決定的なものとなるようにお思います。