HKT48 宮脇咲良、YouTuberデビューでシーン変える? トップアイドルが参戦する意義を考察
宮脇さんのこの件は、スルーというわけではないんだけど、なんかあんまり気乗りしなかったので、このネタの実情とか特に把握してない。なので、以下、縷々述べる内容には、誤解や勘違いがあるかもしれないことは断っとく。
以前、秋元氏はよく「刺さる」という比喩表現を用いて、人の心の閾値を超えて「届く」こと、ぶっちゃけ関心を引くことの重要性を語っていたように思う。けれども、最近はとんと聞かなくなったような気がする。
それもそのはずで、原則、人は見たいものしか見ないし、聞きたいことしか聞かない。何を見たいのか、何を聞きたいのか、人の関心の枠組みが一度設定されたら、その変更は極めて困難なものとなる。
そんな人の関心の枠組みは、生まれ持った資質と、育った環境と、何より個々人の欲望に根ざした利害によってあらかた決定されると考えられ、恐らくは実存や生存と直結してる。であればこそ、枠組みから外れたものに対しては、必然的に無関心とならざるを得ない。
そんな無関心の壁を越えて行く、あるいは、ぶち壊すことなんてできるものではない。だから、ここで言うような意味での「刺さる」なんてことは、ほぼ起こることはないと考えられる。とは言え、同様のことを、視点を変えて、枠組みを変えてみれば、また違ったアスペクトも見えてきたりする。
マザーテレサの言葉のように、愛の反対は無関心なんであって、つまりは愛を関心の一表現と捉えるなら、同様にしてアンチやヘイトもまた関心の一表現なんであり、愛と並列され得ることになる。この議論は可換であって、無関心を越えて行った先には、愛とアンチとヘイトが並列してることになる。
生まれ持った資質はたぶん何をしても変わらない。育った環境は過去であって、もはや変えることはできない。となると、無関心を越えて行くために働きかける対象は、個々人の欲望、そして何より実存と生存という要素ということになるんだろう。そこを揺さぶるものの多くは、より原始的な欲動でなければ、実際には憎悪や恐怖といったネガティブなものこそ主たるものになると考えられる。
その結実がアンチやヘイトになるというのであれば、あんまり認めたくはないけれど、まあ分かる。さすがにそこに愛は現れてはくれないだろうけれど、それでも忘却と許しが愛へと結びつくというビジョンは、あらためて提示しておきたい。つまりは条件付きだけど、ここでも並列となってる。
ネガティブな話は生産的ではないので、では無関心の壁を越えていけるポジティブなものは何かと考えてみて、容易に気づけるのがクリエイティビティであり、創造とのペアリングとしての破壊ということになると思われる。ようやくこれが話の本題なんだけど、たぶん秋元氏が想定していたであろう「刺さる」ものとは、行き着くところ創造性だったんじゃないかと思う。
けれども実際のところ、卑近な例としてのAKBムーブメントの創造の過程で、原始的な欲動を超えることの不可能性を嫌と言うほど経験させられながら、秋元氏は意外なことに「刺さる」ということのロマンを語っていたのかも知れない。あるいは例によって単に「思いつき」を語ってるのに過ぎなかったのかもしれない。そこは問わない。
それでも創造性は時に、あるいは稀に、無関心の壁を越えて行く。その顕著な実例が、正に指原さんなんだという私見は既述の通り。ここで新たに追加提示したいのは、だからこそ、指原さんに向けられる関心は、アンチとヘイトと愛の並列になるんだということ。
そして宮脇さん。宮脇さんは創造性を示し得るのか。示したとして無関心の壁を越えていけるのか。