AKB48の旅

AKB48の旅

ワイドナショー6月24日

2018年06月25日 | AKB
一番の収穫は、第10回AKB世界選抜総選挙の副音声について、指原さん自らの発言によってある程度確認できたことかな。あの副音声での指原さんによる古市氏の扱いは、「古市氏が自ら機能した」ものであり、なおかつ「指原さんによってうまく利用されてた」という見立てもまた正しかったと納得できた。

確かに、古市氏にとっては言わばアウェイな状況だったわけで、その古市流の癖玉なアウェイ発言をうまく利用して、ローコンテクストサイドの「村外」モードと、ハイコンテクストサイドの「村内」モードを接続するという荒技を、指原さんはみごとにこなして見せてくれたことになる。

古市氏という異形の知性であればこそ、そんなアクロバットが可能だったともみなせるし、同時にそれは指原さんによる猛獣使いの離れ業という評価と、表裏の関係性ということになる。しかも結果、サンプルとして誘導される形となった古市氏は、副音声のラストでは、積極的に「オモシロい」発言をするまでに至ってた。これにはシンプルに驚かされた。

あとは今回のワイドナショー全般を通してだけど、指原さんのポジションどりが、はっきり変わってきたかな辺り。かつてのグレーゾーンを巧みに綱渡りする感じが完全に消えて、ほぼ「良識」にまで撤退したように見受けられた。もちろん、だからこそ上記の如くの古市氏の「操縦」が可能だったとする見方も成り立つわけで、たぶん、それが指原さんのリアルタイムにおける「正解」なんだろうと思う。

指原さんの副音声解説

ローコンテクストサイドからの見え方

AKBのガチ

「アイドル誕生!~こんなわたしがAKB48に!?~」

2018年06月24日 | AKB
柏木さんの自伝物語のようなものという理解で良いのかな。「小学館ジュニア文庫」ということで、対象が中学生女子相当の模様。

いちおうざっと目を通したけど、揶揄に聞こえるのを恐れるのだけど、ラノベ調という言い方で良いのかな。内容的には、論評はほぼ不能というか、なんか書こうとしても、触れるそばから批難めいてしまいそうなので何にも書けない。「敬遠」とか書いておこうかな。

にしても、これってどれくらい柏木さんの手が入ってるんだろう。正直、ほぼゴーストという感じにしか思えなかった。

#大西髪切ったってよ

2018年06月23日 | AKB
22日の朝配信で、大西さんが髪をバッサリ30cmあるいは20cm、「中をとって25cm」切って来た。ちょっとびっくりで終わらせても良さそうに思われるかも知れないけど、例によって、髪を切ったというそれだけのことでは済まされない。ここにも大西さんらしい、小さなファーストラビットが。

写真集のダイナミズムみたいなことを考えさせられた。バックヤードを除けば、ロケーションとポーズ、衣装、そして髪型。ぱっと思い浮かぶ、写真集における可変の自由度は、そのあたりなんじゃないかなと思う。けれども、これまでに前例があるのかどうか知らないけど、撮影スケジュールの最中にロングからショートボブにバッサリ行くという、ここに小さな「革新」の余地があったことになる。

拡散希望ハッシュタグということで、それなりに話題にもなるだろうし、#大西半端ないって。


参加と退場の自由

2018年06月22日 | AKB
須田亜香里が突き付けた現実と決意、世間は「48グループに興味が無い」:総選挙

それは世間の皆さんは、私達が思っている以上に、48グループに興味が無いということです。こんなにも皆さんが熱く応援してくれるのに、こんな私でも見てくれる、心の清い人達がいるのに、なんでこんなにも伝わらないんだろうって、もどかしくて、いい順位だっていって番組の方に興味を持ってもらっても、その中ではやっぱり「あなたは何ができますか? 何が伝えられますか?」っていうことを常に問いかけられ、求められます。その連続で、しかも私の発言上のこのグループでのストーリーは10秒のダイジェストでまとめられ、本当にまだまだだなって思います。

こういう議論ってけっこう耳にするし、「村内」っていう専門用語すらも語られてたりする(私も使ってる)。けれどもそれって典型的な勘違いというか、あんまり言いたくないけど、時代遅れな感を否めない。価値観の多様化なんて言葉も手垢がつきすぎてるけど、そんな概念のさらに先に、私たちは既にして立ってるんだろうと思う。

民主主義社会にして資本主義社会であることを前提に、自由と平等という価値観が確立される過程において、最も重要な個人の権利とは、あらゆる場における参加と退場の自由なんだと考えられる。ここで言う「自由」とは、個人の意思あるいは欲望と、そのよって立つ条件、ルールの公平性、透明性ということ。

AKBムーブメントは、ある意味もっとも不透明で不公正と考えられていた「芸能」の分野において、いち早く公平性、透明性を担保しようとした。そんな方向性のパイオニアでもあった。だからこそ、参加と退場の自由が、最も確立されてる場となってると言えるんじゃないかと思う。

個人としての参加と退場の自由が保証されるということは、そこに集団的な強制力が働く余地がない、あるいは思想信条とかイデオロギーとかの介在の余地がない、少なくともその類いの不自由性から最も遠いところにあるということでもある。さらにはより世俗的に、扇動とか扇情とかからも最も距離を置くということになり、寛容と多様性という価値観とも直結することになると思われる。

逆に言うなら、マスコミというものの存在様式と一線を画することになるのであり、事実、AKBムーブメントの根幹は、一貫してマスコミから距離を置いてきたと言えるのではないか。であればこそ、この須田さんの語るところの「10秒のダイジェスト」は、むしろ誇っても良いことなんではないか。そんな「消費」の欲望(あるいは暴力)の中にあって、それでも須田さんはそこにいる。

この流れは、恐らくは時代のトレンドなんであって、とどまることはないんじゃないか。既述の大西さんの「革新」もまた、そんな大枠の中にある。

「AKB48総選挙総括。見どころはたくさんあった……でも「残酷ショー」はこのままでいいのか?」

2018年06月21日 | AKB
AKB48総選挙総括。見どころはたくさんあった……でも「残酷ショー」はこのままでいいのか?

AKB48の総選挙は、2010年代初頭から半ばにかけて、エンタメの形としては新しいものを提示したと思います。一方で、社会の流れを鑑みると、このフォーマットはいろいろな意味でそろそろ耐用期限を迎えつつあるようにも感じます。

「誰かを痛めつけることを楽しむエンタメ」というもののあり方をこの先どう更新していくか。そういった問いを、運営サイドはいよいよ真面目に考えるべきタイミングに来ているのかもしれません。もちろんこれは運営サイドの問題だけでなく、投票して楽しんでいる自分のような人たちにも突きつけられる投げかけではありますが。

グループ内におけるメンバーの立場を一発逆転させるようなドラマチックな部分を残しながら、今の時代にあったエンタメのあり方をどうやって形作るか? AKB48が「予定調和を嫌う」ことでここまでの存在になったのだとすれば、今考えるべきはそういったことではないかと思います。

この先AKB48が社会にとって求められる存在であり続けるためにも、再びあらたなエンタメの形を提示してくれることを願ってやみません。


表面的には、この問題意識で合ってるんだろうと思われる。けれどもそれはやはり「表面的」に過ぎないわけで、記事にも指摘されてるとおり、「ポリティカルコレクトネス」的な虚構の意識に依拠したものとも見なせそう。問題意識へと向き合う方法論的な誤謬とでも言うか。

現実を直視して、現実が残酷であるという当たり前の事実に謙虚に向き合った上で、そんな残酷な現実の1ミリ先の無へと手を伸ばすこと、それが「予定調和を壊す」ということなんだと、あらためて指摘してみたい。

それとなく異論など