須賀城
城名 |
須賀城 |
住所 |
松阪市嬉野須賀町 |
築城者 |
佐波氏 |
形式 |
居館 |
遺構 |
大規模な土塁、高さ3m 南北の長さ50mの。南辺、西辺を囲むような土塁や堀が存在する。嬉野史より |
規模 |
東西150m×南北135m |
城主 |
佐波近江守 |
一族 |
北畠氏の家臣(阿坂城従騎) |
標高 7m 比高 6m |
歴史 |
中村川流域における古代から中世の状況として把握できている史料は吾妻鏡に見られる。須可郷に関するものとして、平治元年(1159)11月17日 須可庄下司為兼(平為兼)息兼真解に「伊勢国須可御庄下司為兼法師子息僧兼真解 申請 殿下政所裁事」の記述があるほか、「吾妻鏡」に元暦元年(1184)9月9日条にも須可庄の地名を見ることができる。 |
応永2年(1468)頃、足利幕府政権争いの時、足利義視が伊勢に逃れてきたとき須賀の積善寺へ寄り接待を受けたことが分かっている。 |
書籍 |
嬉野史 三重の中世城館 |
勢陽五鈴遺響 須賀城址;佐波近江守居ス |
環境 |
伊勢平野のまん真ん中で米所。初瀬街道に近く多気御所へ米を運ぶにも打ってつけ。 |
現地 |
一番西端の土塁を竹林の中に見つけた。堀跡はコンクリートの川に生まれ変わっていた。平成26年6月現在 |
土塁は三か所で確認できたので間違いない。城の西端の最初の防衛施設の堀と土塁である。 |
北に記された土塁は濃い竹林の中にあると思われ未確認である。 |
中央南部に記された区画群も同じく深い竹林の中で確認は困難な様子で諦める。 |
その区画群の南端は東西に長く崖状を見せている。 |
中央北部で道端の土塁の並びは確認できた。敵からの防御というよりは防災の意味かも知れない。 |
考察 |
中世の須賀は、荘園であったことや、北畠氏の支配領域であり、北畠氏に関連深い寺や城があったことは確かなようだ。 |
近世以降、須賀城はその後、豊臣時代には松阪城に入部した蒲生氏郷の領地となり、坂源左衛門尉が住んだといわれ、また、江戸幕府体制下の須賀集落は和歌山藩松坂領に組み込まれた。 |
須賀町には現在も佐波姓を名乗る子孫が住まいされている。 |
感想 |
水田を見渡す低い台地にあり荘園の防御的働きがあったのではないだろうか。集落全体を取り巻く広範囲な土塁・空堀の設置は米蔵を守るためのもので、伊勢平野の米を多気に送る集積所の役割など、大きな意味合いがあったのではないだろうか。 |
地図 |
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