上写真にある崖の位置が峯治城の位置を比定するために手掛かりとなった。
以下の縄張図は埋文ニュースに掲載されたものである。はたしてこの縄張りの実際はどこにあったの
であろうか。外形線に沿ってはさみで切ってみた。
グーグルの航空写真とサイズを合わせて地形が一致するところは無いか探してみた。すると、
一か所明確に合う場所があった。最初の写真の崖のラインが縄張図の地形に一致した。このライ
ンはコンクリートの壁で残されていた。高さも通常よりひときわ高い。東側はこれに沿わせる
ことにする。
西側は何か決め手になるものは無いだろうか。端的な場所は無い。土取り跡の崖のライン、
南西先端の池と縄張図の最下部のラインがなんとか合いそうなくらいである。
しかし、沿わせてみた違和感はなく間違いなさそうである。
峯治城はこのようにあったのであろう。位置の比定にはもう一枚の写真が参考になった。前出のニュ
ースに載せられていた発掘当時の写真である。
第1次調査が済んで写真の左側には既に道路が完成している。又、第2次調査も終りこの様子は土の
中に戻されることになった。又別の報告書には珍しくカラー写真が掲載されていた。
南西から続く尾根を遮断する堀切の写真だ。当時を知る貴重な写真である。
城名 |
峯冶城 |
読み |
みねじじょう |
住所 |
津市上津部田町ヲノ坪 |
築城年 |
応永年間(1394~1428) |
築城者 |
佐脇勝久 |
形式 |
平山城 |
遺構 |
丘陵頂部の西に土塁を持った郭を主郭とし、その北側に土橋を介してⅡ郭を持っていた。 |
郭・土塁・深い二重空堀があった。 |
外側の堀は深さ4m、幅3m以上であった。 |
主郭の東側には腰郭が備わっていた。 |
主郭の北、西、東を巡る堀は土塁までの高低差が5mあった。構造から北側の防御に意識した城造りがうかがわれる。 |
主郭へ入るにはⅢ郭から北へ回り込んで折り返し南へ登り、Ⅱ郭(桝形)を経て土橋を渡り虎口(四脚門)をくぐって至る。主郭には掘立柱建物や井戸があった。 |
井戸郭と考えられるところには井戸が4基備わり、井戸の周りには多種多数の土器が埋まっていた。 |
北側には階段状に平坦な郭が3段丘陵突端部に続いていた。伊勢別街道と志登茂川を見下ろす。 |
規模 |
東西200m×南北120m |
城主 |
佐脇勝久(注1) |
標高 20m 比高 14m |
歴史 |
永禄11年(1586)信長の伊勢侵攻の際に滅んだという。 |
書籍 |
伊勢名勝志 |
環境 |
西方500mに上津部田城あり。 |
伊勢別街道が伊勢街道に直交する近くにある。津の山を背にして北からの守りについた位置にある。 |
志登茂川の流れを見下ろす標高20mの丘陵北端部にある。 |
一族 |
佐脇一族 |
勢陽五鈴遺響 |
記述なし |
現地 |
昭和26年頃、城域の南部は土取りによって破壊されている。この時、主郭の大半が無くなった。 |
縄張図に一番近い光景が残っていると思われるロケーションを探すが厳しい現地の様子である。 |
考察 |
西方500mの上津部田城を含む三ヶ所の城が近辺にあったといわれるが峯治城はその一群とは別に存在した城と考える。 |
感想 |
築城は応永年間(1394~1428)とあるが城の完成度はかなり高い。時代を追うごとに最新式の城に多数の改善が加えられたと想像される。 |
注1 |
佐脇氏は畠山氏に仕える国人の家柄である。朝明郡柿村に佐脇三河守が守備したが三河国から伊勢に来往した佐脇久隆の一族ではないだろうか。 |
佐脇勝久は更に南下し一身田を守備したと思われる。 |
付近には佐脇性が数多く残るという。 |
その他 |
平成元年から3年に渡って埋蔵文化財センターや津市教育委員会が発掘調査した。 |
井戸、かまども発掘された。土師器皿、茶釜、煮炊き用羽釜など日用雑貨も多く発掘されたことから、この城が生活の場として機能していたと考えられる。 |
地図 |
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