7.13水害から1年。
あの日は、きょうのような、こんなにさわやかな
天気ではありませんでした。
朝から雨がどしゃ降りで、保育園の前の排水も
間に合わず、9時過ぎにすでにタイヤの中程まで
水がつくほどでした。
そして、テレビのニュースをつけると、見附や
中之島、三条であたりが、堤防が切れたりして
大変なことになっているという報道がありました。
その日の夕方の小学生のみんなのお迎えでも、
向陵高校周辺があちこち冠水していて、車で
向かったはいいけど、どちらに進むことも
出来なくなっていたりして、本当に生きた心地が
しませんでした。
---
水害が発生したその週末に、川上は中之島に
ボランティアに行きました。
隣人の困っているのを、エアコンの効いた涼しい
部屋でテレビの画面を通して見ていることが
とてもできませんでした。
一人で出来ることには限界があるし、一人増えた
ところでちっとも変わりもないかも知れないけど、
じっとしていられないという気持ちでした。
---
ニュースで繰り返し流れていたお寺の流された
跡や、ヘリコプターで救出された保育園の
すぐ近くでの泥かきの作業を手伝ってきました。
鼻を突くニオイや、太陽の照りつける暑さよりも、
平和な街が一瞬にしてめちゃめちゃに破壊されて
いることが最も哀しかった記憶があります。
ドロドロの道に出されている水没した家財道具や、
行き交う自衛隊の車輌や重機をよけながら、
スコップを持って歩いて進んでいきます。
すると、被災した住宅の2階からおばあさんが顔を
出して、行列を作って進むボランティアに手を振り、
手を合わせ、涙混じりで声をかけます。
「ありがとうね…。ありがとうね…。」
その声が、張りつめていた自分の気持ちを揺さぶり、
涙がこみ上げてきました。
初日は、役場の近くの古本屋さんの自宅を手伝う
ことになりました。自宅脇の倉庫には、商品の在庫が
ぎっしり詰まっていたのが、そこも1m以上の高さまで
泥をかぶり、古い歴史のある本やCDが、ドロドロになり
すべてゴミとなって捨てられました。
当時インターネットの掲示板に書き込んだコメントが
メモ帳に残っていて、それはこんな風に書いてありました。
---
中之島へボランティアに行ってきました。
さて、中之島のみなさんは、個人のボランティアも、
大変温かく受け入れてくれました。
前スレに「個人のボランティアは迷惑になる」などと
いう書き込みもありましたが、実際は団体と個人が半々
くらいのようでした。
遠い島でおこったこと出来事ではないし、
地震と異なり、周辺はまったく被害のないところは
まったく何も問題無いので、物資はたくさんあると
いうのが第一の印象でした。
それに対して不足しているのは圧倒的に人の手です。
企業や大きな組織のあるところは他の部署から応援が来て
既にきれいに片付いているところもありましたが、
個人の家は家族・親戚・知人による自力で復旧作業するか、
高いお金を出して業者に頼むか、あるいはボランティアに
頼むしかありません。
自衛隊もたくさん来ていますが、手伝うのは特に災害の
ひどい家屋・地域のみです。
しかし、特に災害のひどいところでなくても、片づけには
恐ろしく手間がかかります。1階部分が50cm、60cmも
水没してしまったのです。というか、水没ではなく、
泥流・濁流が流れ込んでいるのです。機械が入り込むことの
できない普通の民家では、とにかく、一人でも多くの人の手で
かき出す、運び出すしか方法がありません。
被災者のみなさんはとても疲れていますので、お互いに
ムリせず、疲れないように作業しようという風に
言ってくれました。ムリのない程度に、自分のできることを
できる限りするというのが、ボランティアには大切なのでは
ないでしょうか。
越後人の底力を今、見せてやりましょう!!
---
その家の主は、作業が終わってドロドロになった顔で、
ボランティアをしたぼくらの手を取り、笑顔で、
「ありがとう。この恩は一生忘れないよ。」
と言いました。
ですが、その彼は、つい先月亡くなりました。
とても残念です。
わたしも彼の笑顔は、一生忘れられません。
---
上記のものも、写真は16年7月撮影。
道ばたの街路樹に、ボートがくくりつけたまま置いてある。
道には、ぬるぬるの泥が堆積している。
最初に手伝った家は、古本屋さんだった。
木の箱にぎっしり入った人間の知恵を、ゴミとして捨てた。
本を捨てるのは、川上にとって哀しい。
2回目のボランティアで手伝った家は、決壊地点の
お寺のすぐ近く。
電柱は傾き、建物は基礎から離れて流され、自衛隊が
バケツリレーで土嚢を運ぶ。
同じく決壊地点すぐ近くの神社も鳥居が崩れ、
ぐちゃぐちゃになっている。前の道路には
近隣の家から出た、あるいは流れてきた
瓦礫が山となっている。
泥かきの合間に話をしたその家の主は、
「このすぐ裏で人が一人死んでいるからね」
とぼそりと言った。
畳もはがし、床下に積もった泥をすくい出す。
家族の憩いの場は、ドロドロとなった。
窓も玄関もない。
ドラマではなく、これが現実だ。
流れてきたお寺の建物の太い梁が、濁流と共に
下流の家を押しつぶしていた。
決壊地点。
お寺の墓地と、建物がまるで見えない。
---
悲惨な災害の犠牲者を出さないために、今年から
「避難準備情報」というものが「避難勧告」に
先だって発令されるということが制定されました。
先日の6.28の大雨での渋海川の増水に伴う北山地区への
「避難準備情報」は、奇しくもその史上初の発令となったと
いうことです。
幸いなことにこの準備情報は空振りになりましたが、
こんな空振りだったら大歓迎です。
---
わたし達は、どんなに辛いことがあっても、いつかは
忘れてしまうものです。しかし、新たな犠牲者を今後
増やさないためにも、水害も、中越地震も、豪雪も、
これら災害の記憶は決して風化させることなく、
次の時に生かしていけるようにしたいと思います。
---
ガンバロウ長岡!!!
ガンバロウ育英!!!
by 川上
あの日は、きょうのような、こんなにさわやかな
天気ではありませんでした。
朝から雨がどしゃ降りで、保育園の前の排水も
間に合わず、9時過ぎにすでにタイヤの中程まで
水がつくほどでした。
そして、テレビのニュースをつけると、見附や
中之島、三条であたりが、堤防が切れたりして
大変なことになっているという報道がありました。
その日の夕方の小学生のみんなのお迎えでも、
向陵高校周辺があちこち冠水していて、車で
向かったはいいけど、どちらに進むことも
出来なくなっていたりして、本当に生きた心地が
しませんでした。
---
水害が発生したその週末に、川上は中之島に
ボランティアに行きました。
隣人の困っているのを、エアコンの効いた涼しい
部屋でテレビの画面を通して見ていることが
とてもできませんでした。
一人で出来ることには限界があるし、一人増えた
ところでちっとも変わりもないかも知れないけど、
じっとしていられないという気持ちでした。
---
ニュースで繰り返し流れていたお寺の流された
跡や、ヘリコプターで救出された保育園の
すぐ近くでの泥かきの作業を手伝ってきました。
鼻を突くニオイや、太陽の照りつける暑さよりも、
平和な街が一瞬にしてめちゃめちゃに破壊されて
いることが最も哀しかった記憶があります。
ドロドロの道に出されている水没した家財道具や、
行き交う自衛隊の車輌や重機をよけながら、
スコップを持って歩いて進んでいきます。
すると、被災した住宅の2階からおばあさんが顔を
出して、行列を作って進むボランティアに手を振り、
手を合わせ、涙混じりで声をかけます。
「ありがとうね…。ありがとうね…。」
その声が、張りつめていた自分の気持ちを揺さぶり、
涙がこみ上げてきました。
初日は、役場の近くの古本屋さんの自宅を手伝う
ことになりました。自宅脇の倉庫には、商品の在庫が
ぎっしり詰まっていたのが、そこも1m以上の高さまで
泥をかぶり、古い歴史のある本やCDが、ドロドロになり
すべてゴミとなって捨てられました。
当時インターネットの掲示板に書き込んだコメントが
メモ帳に残っていて、それはこんな風に書いてありました。
---
中之島へボランティアに行ってきました。
さて、中之島のみなさんは、個人のボランティアも、
大変温かく受け入れてくれました。
前スレに「個人のボランティアは迷惑になる」などと
いう書き込みもありましたが、実際は団体と個人が半々
くらいのようでした。
遠い島でおこったこと出来事ではないし、
地震と異なり、周辺はまったく被害のないところは
まったく何も問題無いので、物資はたくさんあると
いうのが第一の印象でした。
それに対して不足しているのは圧倒的に人の手です。
企業や大きな組織のあるところは他の部署から応援が来て
既にきれいに片付いているところもありましたが、
個人の家は家族・親戚・知人による自力で復旧作業するか、
高いお金を出して業者に頼むか、あるいはボランティアに
頼むしかありません。
自衛隊もたくさん来ていますが、手伝うのは特に災害の
ひどい家屋・地域のみです。
しかし、特に災害のひどいところでなくても、片づけには
恐ろしく手間がかかります。1階部分が50cm、60cmも
水没してしまったのです。というか、水没ではなく、
泥流・濁流が流れ込んでいるのです。機械が入り込むことの
できない普通の民家では、とにかく、一人でも多くの人の手で
かき出す、運び出すしか方法がありません。
被災者のみなさんはとても疲れていますので、お互いに
ムリせず、疲れないように作業しようという風に
言ってくれました。ムリのない程度に、自分のできることを
できる限りするというのが、ボランティアには大切なのでは
ないでしょうか。
越後人の底力を今、見せてやりましょう!!
---
その家の主は、作業が終わってドロドロになった顔で、
ボランティアをしたぼくらの手を取り、笑顔で、
「ありがとう。この恩は一生忘れないよ。」
と言いました。
ですが、その彼は、つい先月亡くなりました。
とても残念です。
わたしも彼の笑顔は、一生忘れられません。
---
上記のものも、写真は16年7月撮影。
道ばたの街路樹に、ボートがくくりつけたまま置いてある。
道には、ぬるぬるの泥が堆積している。
最初に手伝った家は、古本屋さんだった。
木の箱にぎっしり入った人間の知恵を、ゴミとして捨てた。
本を捨てるのは、川上にとって哀しい。
2回目のボランティアで手伝った家は、決壊地点の
お寺のすぐ近く。
電柱は傾き、建物は基礎から離れて流され、自衛隊が
バケツリレーで土嚢を運ぶ。
同じく決壊地点すぐ近くの神社も鳥居が崩れ、
ぐちゃぐちゃになっている。前の道路には
近隣の家から出た、あるいは流れてきた
瓦礫が山となっている。
泥かきの合間に話をしたその家の主は、
「このすぐ裏で人が一人死んでいるからね」
とぼそりと言った。
畳もはがし、床下に積もった泥をすくい出す。
家族の憩いの場は、ドロドロとなった。
窓も玄関もない。
ドラマではなく、これが現実だ。
流れてきたお寺の建物の太い梁が、濁流と共に
下流の家を押しつぶしていた。
決壊地点。
お寺の墓地と、建物がまるで見えない。
---
悲惨な災害の犠牲者を出さないために、今年から
「避難準備情報」というものが「避難勧告」に
先だって発令されるということが制定されました。
先日の6.28の大雨での渋海川の増水に伴う北山地区への
「避難準備情報」は、奇しくもその史上初の発令となったと
いうことです。
幸いなことにこの準備情報は空振りになりましたが、
こんな空振りだったら大歓迎です。
---
わたし達は、どんなに辛いことがあっても、いつかは
忘れてしまうものです。しかし、新たな犠牲者を今後
増やさないためにも、水害も、中越地震も、豪雪も、
これら災害の記憶は決して風化させることなく、
次の時に生かしていけるようにしたいと思います。
---
ガンバロウ長岡!!!
ガンバロウ育英!!!
by 川上