四日市の空の下で 公害の教訓は活きているか
四日市公害犠牲者慰霊碑(四日市市北大谷霊園)
大気汚染をめぐり企業の賠償責任を初めて認めた四日市公害訴訟の判決(1972年7月24日)から5年後の1977年、大谷斎場の敷地内に四日市公害犠牲者慰霊碑が建立され、10月23日に慰霊祭がおこなわれました。
その後、斎場の整備により、1990年、霊園内の現在地に移転されました。
1977年建立当時、すでに亡くなられた公害認定患者の方は184名でした。慰霊祭はその後も続けられています。
(2011年9月24日、1年間の物故者19名、合併前の楠町67名、認定制度実施前の7名を含む985名の冥福を祈った。)
■四日市公害
1959年
4月 第1コンビナート稼動
1960年
異臭魚の範囲が、四日市の沖合4キロまで広がる
磯津地区でぜんそく症状を訴える人が増加する
3月 東京築地中央卸売市場「伊勢湾の魚は油臭いので、厳重な検査が必要」と通告
4月 塩浜地区連合自治会、ばい煙、騒音、悪臭等公害について市に陳情
8月 四日市市公害防止対策委員会発足
1963年
この頃より住民運動が活発化する
黒川調査団勧告
7月 三重県に公害対策室設置
8月 四日市市衛生課に公害対策係設置
11月 第2コンビナート本格稼動
1964年
4月 公害患者が肺気腫で亡くなり、初めての犠牲者となる
四日市地区大気汚染特別調査会答申 四日市はばい煙規正法の指定地域となる。また、
この報告で指摘された空気清浄室が、塩浜病院、市立四日市病院、築港病院に設置される
1966年
7月 地域住民が「死ねば薬もいらず楽になる」との遺書を残して自殺
1967年
2月 四日市市議会、第3コンビナートの誘致決定
6月 公害患者が「ああ、今日も空気が悪い」という遺書を残して自殺
四日市公害対策協議会が「公害犠牲者追悼・抗議の市民集会」を開催
7月 三重県公害防止条例公布 (四日市公害の原因である亜硫酸ガスの規制は含まれず)
8月 公害対策基本法公布、施行
9月 磯津地区の患者9人が6社に対して津地裁四日市支部に提訴
(四日市公害訴訟始まる)
10月 塩浜中学校3年生、発作による呼吸器困難のため病院で亡くなる
1968年
6月 大気汚染防止法公布
9月 四日市地域公害防止対策協議会発足
10月 訴訟提起1年後、四日市公害認定患者の会が発足
1971年
6月 悪臭防止法公布
10月 四日市市が、大気汚染防止法に基づく政令市になる
1972年
3月 第3コンビナート本格稼動
7月 四日市公害損害賠償裁判判決
石原産業が代表して9,500万円の賠償金を支払
被告6社が控訴断念
碑の前からコンビナートが見えます。
(2009年5月記 2013年8月加筆)