いのりむし文庫

いのりむし斧舎 ⒸNakajima Hisae

公害から集団移転した平和町 (塩浜地区)

2013-08-08 | よっかいち 人権の礎を訪ねて

消えた引揚者のまち
  
   公害から集団移転した平和町 (塩浜地区)

Yakeiheiwasawaiimage2
1971年平和町夜景 (提供:澤井余志郎さん)

P1200571

20p1200560
2011年4月 平和町跡地
 
 
 1960年代、拡大する公害の抜本対策として検討されたのが、コンビナート隣接地域の集団移転です。松下電工、味の素などの工場が林立する雨池町は、1962年に集団移転の請願を提出し、悪臭と煤煙、水害の苦しみを訴えました。1965年、四日市市が作成した事業計画案『当面する土地改良事業について』によると、都市改造事業として移転が検討されていたのは、午起、雨池、塩浜、平和の4地区でした。

 午起 第二コンビナートと名四国道の間の市営住宅を中心とする住宅
 雨池 松下電工、味の素等の工場地帯に隣接している住宅
 塩浜 第一コンビナートに隣接する住宅
 平和 第一コンビナートの南側に近接する住宅

 集団移転を具体的にすすめるため、1966年には、四日市市都市公害対策研究会によって、85年までの長期計画都市公害対策マスタープランが作成されました。7,082戸の住宅移転計画が盛り込まれ、1966年実施開始予定の2地区(平和町・雨池町)の内、まず実施されたのが平和町でした。日本で初めての「公害からの集団疎開」といわれています。

 平和町は、かつては旧第二海軍燃料廠の工員住宅でしたが、戦後は引揚者が入居する市営住宅となり「平和町」と呼ばれるようになりました。住宅は国から居住者に払い下げられ、土地は市有地でした。契約では、賃貸借契約が満了する1963年には、土地も売り渡されることになっていましたが、公害問題の発生で、丘陵地の市営住宅への移転交渉がすすめられました。しかし、67戸の対象住宅の中には、自転車、菓子、食料品、ブリキなどの商売を営む家もあり交渉は難航します。

 1966年、建設省の不良住宅地区改良事業として移転事業が開始されると、移転に反対する住民は、地区指定の取り消し訴訟などで対抗。改良地区に指定されたというだけでは、「住民の権利義務に直接影響を及ぼす行政処分とはいえず、訴訟の対象とはならない」(中日新聞1969年5月16日)という理由で却下(津地裁5月15日)されましたが、1971年の控訴棄却(名古屋高裁)まで争われました。

 市の移転事業では、強制的に排除するなどの方法は取られなかったため、住民の全てが移転を完了したのは1977年のことでした。
 
 その後、跡地は緑地となり、平和緑地と呼ばれることもあります。

■参考 『四日市市史 現代』 

(2011年4月 記)
        

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 陸軍椿秘匿飛行場 土製掩体... | トップ | 四日市市内の戦争慰霊碑につ... »
最新の画像もっと見る

よっかいち 人権の礎を訪ねて」カテゴリの最新記事