国体論 菊と星条旗/白井聡/集英社新書/2018
国体をテーマとして扱う、保守層向けの本だと期待して読んだが、完全に期待はずれ。
アマゾン書評で一つ星の評価をタイトルはこうなっている。
・結局何を伝えたいのか?
・過去の亡霊
・尊王攘夷
・衣を被ったマルクス主義者あるいは唯物主義者の妄言
・「国体」という死語を引っ張り出して何をいうのか。本気で読む気になれない。
・3ページで読了断念
私の場合は、3頁で読むことを諦めた。
3頁で読むことを諦めたので、最初の3頁に何が書いてあるか、紹介しておきたい。
書き出しはこうなっている。
【本書のテーマは「国体」である。この言葉・概念を基軸として、明治維新から現在に至るまるの近現代日本史を把握することが、本書で試みられる事柄にほかならない。】
その直後に、
【戦後には<<国体>>は死語であり、日本の現状を理解するには不適切ではないのか」と。「戦前の国体」とは何であったかと端的に言えば、万世一系の天皇を頂点にいただいた「君臣総睦み合う家族国家」を理念として全国民に強制する体制であった。】
と戦前の国体について結論を披露し、戦後において、死語だと規定している。
書き出しと、その直後に書かれた文章の不整合が生じている。
著者は、本文で、近現代日本史を把握することを試みたはずが、直後の文章で結論表明していると私は受け取った。著者が私の判断が誤解だとするなら、著者は一般向けに書く作法が身についていないと言わざるを得ない。
さらに指摘するならば、戦後において<<国体>>は死語だと断定しておきながら、4頁の文章には、「再編されたかたちで生き残っている」としている。
【「国体」が戦前日本と戦後日本を貫通する「何か」を指し示しうる概念であるのは、戦前と戦後を分かつ一九四五年の敗戦に伴ってもたらされた社会改革によって、「国体」は表面的には廃絶されたにもかかわらず、実は再編されたかたちで生き残ったからである。】
続いて、何を差し置いても最初に規定すべき用語の定義が、突然飛び出す。
【敗戦時の「国体」の再編劇において決定的な役割を果たしたのがアメリカであったことは、言うまでもない。その複雑なぷろせすに見て取るべきものを、本書では「国体護持の政治神学」と呼ぶ。】
さらに、その直後にて、死語となっていると断定した「国体」なるもの、そして、書き出しにて
「明治維新から現在に至るまるの近現代日本史を把握する」と高らかに宣言したことについて、何の根拠を示すことなく、
【そしていま、アメリカの媒介によって「国体」が再編され維持されたことの重大なる帰結を、われわれは目撃しているのである。】
と書き出しに対応する結論らしきことを示唆している。
終章の見出しは、「国体の幻想とその力」
1 国体の幻想的観念
2 国体がもたらす破滅
3 再び「お言葉」をめぐって
とある。
書き出しで宣言した、【本書のテーマは「国体」である。この言葉・概念を基軸として、明治維新から現在に至るまるの近現代日本史を把握することが、本書で試みられる事柄にほかならない。】を読み直すと、タイトルが国体論であるのに、明治維新から現在に至るまるの近現代日本史を把握するという日本語は理解しがたい。
国体論と近現代日本史を関連づけて解明するなら、タイトルは「国体論と近現代日本史」とすべきだった。
たった3頁しか読んでいないが、その3頁について、読み手にとって、理解しがたい表現というか齟齬が多数発生している。
一言で言うと、中立的歴史観を装いつつ、マルクス史観で国体論を扱うロジックに近いのかもしれない。はじめにて、何の根拠も示さず、結論らしきことを仄めかし、その結論に沿って本文を述べるスタンスは、はじめに結論ありきの手法そのものだ。
はっきり言って、本気で読んではいけない本と思う。また、一般向けに書かれたにしては、各部の齟齬が多い点において、悪文であり、決して手本とすべき書き方ではない。
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