昨夜、アメトークで、『団地で育った芸人』を放送していたので、おもわず録画してしまいました…⁉︎😄
ワタクシも、実は小学3年生の夏から、大学4年の夏まで団地暮らしをしておりました…⁉︎😁
しかし、大学4年の夏過ぎから、卒業論文やら卒業設計で、徹夜が続くことが予想されたので、母親に頼んで駅に近い超ボロアパートの一部屋を借りてもらいました…⁉︎
木造二階建、四畳半一間で、台所、便所は共同、もちろん風呂無しで、確か家賃3千円…⁉︎😅
(当時、学生が住むアパートは一畳千円が相場)
ワタクシは卒業後も独り暮らしの気楽さを捨てきれず、母と兄が住む団地の家には戻ることはありませんでした…⁉︎😵
母親は、亡くなるまでずっと同じ団地で独り暮らしをしていましたが、病気で亡くなる半年ほど前に、大宮の兄の家に移りました…⁉︎
しかし、団地の家は残したままでしたし、もう一度団地の部屋に戻りたかったんでしょうけど、結局、病気には勝てず叶いませんでした…⁉︎😭
テレビ番組の『団地で育った芸人』に出演していた芸人さん達は、年齢が40歳前後でしたから、ワタクシと30才以上離れているので、ワタクシが団地暮らしをしていた時代と、芸人さん達が団地暮らしをしていた時代では、共通する団地生活も沢山あったけど、やはりちょっと時代が違うかなぁ…?😅
昭和30年代と平成では団地族に限らず、日本人の生活様式も大分違っていますからね…⁉︎😄
30年〜40年前と言うと、バブル期からバブルが弾けた頃かなぁ…⁉︎😄
しかし、どの家庭にも、カラーテレビ、エアコン、冷蔵庫、洗濯機、固定電話はあったはずですが、ワタクシの団地暮らしのはじめの頃は、14㌅の白黒テレビすら無かったし…⁉︎😅
ワタクシが住んでいた世田谷区内の団地は、日本住宅公団の団地で、昭和33年完成入居の階段室形式の4階建が主な、全19棟、573戸だったようです…⁉︎
我が家は、7号棟の1階で、間取りは2DK、水洗トイレ、内釜式風呂付き、洗濯機はベランダに設置という昭和30年代の典型的な間取りの団地住宅でした…⁉︎
それでも、食事する部屋と寝る部屋が別々で、冷蔵庫や風呂があるなんて、夢のよう…⁉︎😆
当時の団地は、各棟ごとに焼却炉があったり、又、階段室ごとにダストシュートが有りましたが、夏場に生ゴミが腐敗して、ウジ虫がわく為、数年で使用禁止なりましたよ…⁉︎😅
生ゴミをビニール袋に入れて、2〜4階から落せば、破けて散らばることぐらい設計する時から分かるだろうに…⁉︎😄
まあ、昭和30年代の団地暮らしは、ちょっと憧れる新しい文化的生活だったんですよね…⁉︎😁
ワタクシは、団地に越して来た時が小学3年生でしたし、団地のまわりも田舎っぽくて、野球が出来る空き地があったり、ザリガニが取れる水路があったり、畑や田んぼがあちこちに有り、当時の世田谷はかなり田舎でしたね…⁉︎😄
団地には同年代の子供が沢山住んでいましたから、団地の中でも、外でも良く遊びました…⁉︎😁
だから、当時の団地暮らしは毎日が楽しくて、ワタクシは楽しい思い出が沢山ありますね…⁉︎😄
それに比べ、現在住んでいる都心のマンション暮らしは、実は最悪で、このマンションに越してから、36年間住んでいますが、信じられないでしょうけど、今だに両隣りのお宅の名前も知りません…⁉︎😅
何故なら、頻繁に入れ替わるし、同じフロアに引っ越して来ても挨拶もありませんし、表札すら出さない家が多いんですから…⁉︎😱
まぁ、エレベーターの中や、エントランスで会えば挨拶ぐらいはしますがね…⁉︎😁
そんなワケで、昭和の時代の団地暮らしを懐かしむ、今日この頃でございます…⁉︎😵
子供の頃は団地暮らしは快適でしたが、大人になると何故か団地から早く脱出しなければと考えるようになりました…⁉︎😅
今や、昭和に建てられた団地は、多くが高齢者か、日本で働く外国人だけが住むようになり、廃れる一方だそうで、寂しいですなぁ…⁉︎😭
そんなワケで、もう一度団地暮らしをするのも悪くないと思う、今日この頃でございます…⁉︎😆
アッ!そうそう、都心のマンション生活で、一つだけ良いことがありました…⁉︎😁
それは、築40年近くなるのに、未だに買った価格の1.5倍以上で売却出来るってことですネ…⁉︎
フハフハフハ・・❣️😄