夏目漱石を読むという虚栄
6000 『それから』から『道草』まで
6400 どこへも行けない『行人』
6440 パオロとラーンスロット
6441 「自然の法則」
なぜ、「恋」は「神聖」なのか。
<「己はこう解釈する。人間の作った夫婦という関係よりも、自然が醸(かも)した恋愛の方が、実際神聖だから、それで時を経(ふ)るに従がって、狭い社会の作った窮屈(きゅうくつ)な道徳を脱ぎ棄(す)てて、大きな自然の法則を嘆美する声だけが、我々の耳を刺戟(しげき)するように残るのではなかろうか。尤もその当時はみんな道徳に加勢する。二人のような関係を不義だと云って咎(とが)める。然しそれはその事情の起った瞬間を治める為の道義に駆られた云わば通り雨のようなもので、あとへ(ママ)残るのはどうしても青天と白日、即ちパオロとフランチェスカさ。どうだそうは思わんかね」
(夏目漱石『行人』「帰ってから」二十七)>
思わんね。「パオロとフランチェスカ」は地獄に堕ちたのだよ。
「己」は一郎で、聞かされているのは二郎。一郎は、『神曲』の中の「パオロと云うのはフランチェスカの夫の弟で、その二人が夫の眼を忍んで、互に慕い合った結果、とうとう夫に見付かって殺されるという悲しい物語り」(「帰ってから」二十七)について述べている。この物語を読んだせいで、一郎は妻と二郎の関係を疑うようになったらしい。「こう解釈する」は、「何故肝心(かんじん)な夫の名を世間が忘れてパオロとフランチェスカだけ覚えているのか」(「帰ってから」二十七)という自分の出した問題に対する答えだ。「肝心(かんじん)」は意味不明。
「この件(くだり)にはダンテの虚栄心が窺えます」(ボルヘス『七つの夜』「第一夜 神曲」)ということだが、一郎の台詞には作者の「虚栄心」が窺える。
「夫婦という関係」と「恋愛」の比較は無意味。〈恋愛結婚〉はどっち? 「自然が醸(かも)した」は意味不明。〈「自然」だから「神聖」〉は不可解。「自然」は野蛮だろう。「それで」は〈だから〉と解釈するが、ソ系語の濫用。「時を経(ふ)るに従がって」は不可解。「狭い社会」の対義語は〈広い個人〉か。「日本より頭の中の方が広いでしょう」(『三四郎』一)と広田は語った。「道徳」は「窮屈な」ものと決まっているらしい。「大きな自然」の対義語は「小さい自然」(『明暗』百四十七)か。「恋愛」が「自然の法則」に従うのなら、発情だろう。「大きな自然の法則を嘆美する声」や「刺戟(しげき)するように残る」も意味不明。「自然」は夏目語。論理が破綻しそうなときに用いるらしい。
「道徳に加勢する」は意味不明。
「西欧における情熱恋愛概念の淵源(えんげん)をなす中世の物語」(『ニッポニカ』「トリスタンとイゾルデ」)の主題は不倫だった。トリスタンとイゾルデは、どうして恋に落ちたのか。誤って媚薬を飲んだからだ。パオロとフランチェスカの場合、媚薬を飲んだのではない。何となく惹かれあう気持ちが恋愛感情にまで高まったのは、媚薬に代わる何かが機能したからだ。一郎はその何かを読み落としている。いや、作者が読み落としているのだろう。Nは、西洋の「ラッヴ」について無知であるばかりか、読解力もかなり不足している。
「それはその事情」の「それ」の指すものがない。「瞬間」は誇張しすぎ。「どうしても」は意味不明。「青天と白日」は意味不明。〈無罪〉と言ったつもりか。面倒くさい。
6000 『それから』から『道草』まで
6400 どこへも行けない『行人』
6440 パオロとラーンスロット
6442 フランチェスカは語る
『神曲』の中のダンテは、フランチェスカの魂に向かって次のように語りかけた。
<それから二人のほうを向き、こう語りかけながら、
私は話した。「フランチェスカ、あなたの劫罰は
痛ましくて哀れで涙が止まらない。
けれども私に教えて欲しい。切なくため息をつくばかりだった頃、
どんな折にどのように愛が許して
不確かな互いの想いを知ったのか」。
(ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』「第五歌」)>
彼らは「劫罰」を受けているのに、「神聖」(「帰ってから」二十七)か?
フランチェスカは答えた。
<ある日、私達は気晴らしに
あのラーンスロットを愛がどうやって服従させたのかを読んでいました。
私達は二人きりで何の心配もしていませんでした。
物語が何度も私達の目を
そそのかし、目が合って私達は顔色を失いました。
けれども私達が負けてしまったのはあの瞬間。
あのあこがれの微笑みが、
勇気にあふれた恋人に口づけされるのを読んだその時、
この人は、その後で私から離れることはなくなるのですが、
全身をぶるぶると震わせながら私の口に口づけたのです。
その本と、その作者が、仲立ちことガレオーでした。
あの日はもうその先を読むことはありませんでした」
(ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』「第五歌」)>
「私達」は、パウロとフランチェスカ。
一郎の「自然が醸(かも)した恋愛」という「解釈」が誤りなのは明白だろう。「仲立ち」をしたのは、「自然」ではなく、アーサー王伝説の中の〈「ラーンスロット」の物語〉だった。
「ガレオー」は「妃の付き人。彼は、高貴な身分の既婚婦人が身分の低い騎士の奉仕を受ける宮廷恋愛を成立させるのに必要な見届け人を務め、物語の顛末をしたためたことになっている」(原基品による注)という。
6000 『それから』から『道草』まで
6400 どこへも行けない『行人』
6440 パオロとラーンスロット
6443 エレーナとグネヴィア
学生の代助は、安井のガレオーだった。しかし、ニートの代助にガレオーはいない。その代替物であるはずの〈「自然」の物語〉はなく、だから、その語り手のガレオーもいない。
宗助のガレオーの代替物は〈「父母未生以前」の物語〉つまり『趣味の遺伝』で語られたような因縁だろう。作者は、こうした話を隠蔽しているわけだ。
二郎と三沢は、〈友人をガレオーに仕立てる〉という競争をしていたのかもしれない。
<実を云うとマロリーの写したランスロットは或る点に於て車夫の如く、ギニヴィアは車夫の情婦の樣な感じがある。この一点だけでも書き直す必要は充分あると思う。
(夏目漱石『薤露行』)>
『薤露行』のヒロインは「可憐(かれん)なるエレーン」(「三 袖」)だが、マロリーのエレーンは「色情狂」(『行人』「友達」三十三)みたいだ。ラーンスロットは「この人の私への愛は、あまりにも激しすぎたのです」(マロリー『アーサー王の死』)と語った。
グネヴィアはエレーンとラーンスロットの仲を疑っていた。
王妃はラーンスロットを呼び、いわれもなく腹を立てていたことをわびた。
<「いわれないお腹立ちをなさったのは、これがはじめてではございませんね。しかし、私はいつも王妃さまをゆるさないではいられないのです。そのために私がどれほど悲しみをなめようと、かまいません」とラーンスロットが言った。
(サー・トマス・マロリー『アーサー王の死』「ラーンスロット卿と王妃」20)>
「王妃」は嫉妬深い。
パオロとフランチェスカを讃えながら、その「ガレオー」を貶すのは、矛盾だ。矛盾でもいいが、Nは矛盾に気づいていたろうか。西洋文学における重要な物語を、Nは根本から理解できなかったらしい。
騎士階級のより所である円卓の騎士の物語は、16世紀初め『ドン・キホーテ』という過激な作品によって風刺されたとき、その使命を終えることとなった。
(『ブリタニカ国際大百科事典』「円卓の騎士」)
ちなみに、エレーンは小夜子(さよこ)(『虞美人草』)の原型だ。小野は、ラーンスロットと違い、小夜子とその父にほだされて藤尾から去る。また、エレーンは、『行人』で「色情狂」と疑われる「娘」の原型だろう。『三四郎』の冒頭に出てくる女は「色情狂」らしい。『草枕』の那美も、『三四郎』の美禰子も、「色情狂」かもしれない。
『行人』の隠された主題は〈兄妹相姦と母子相姦の混交〉だ。二郎の理想の「愛人」は、優しい母のような、あどけない妹のような異性で、両者を混交したのが嫂だろう。『行人』の場合、一郎の妻だ。
(6440終)