「この不可思議な私というもの」は意味不明
~夏目漱石『こころ』批判3/7
『こころ』に含まれた文言の多くは意味不明だ。
私は私の出来る限りこの不可思議な私というものを、貴方に解らせるように、今までの叙述で己れを尽くした積りです。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」五十六)
この「私」は無為徒食の中年男だ。名前がないので、『『こころ』の意味は朦朧として』では〈S〉と呼んでいる。〈sensei〉の頭文字。
「私の出来る限り」は、〈今の「私の」力で「出来る限り」〉といった文言を隠蔽する言葉だろう。つまり、〈時と場合によってはもっと解りやすい話が「出来る」かもしれない〉といった可能性を隠蔽する言葉だろう。そして、こうした隠蔽の事実を暴露しかけた言葉なのに違いない。語るに落ちる。
「この」が「私」と「もの」のどちらに係るか、不明。「この」の真意が〈このように〉なら、「この」は「不可思議な」に係る。要するに、「この不可思議な私というもの」は意味不明なのだ。
この「貴方」は無為徒食の青年だ。名前がないので、『『こころ』の意味は朦朧として』では〈P〉と呼んでいる。〈pet〉の頭文字。PはSを「先生」と呼ぶが、その理由は不明。
〈「不可思議な」「ものを」「解らせる」〉は意味不明。「解らせ」られたら、この「もの」は「不可思議」でなくなるのか。あるいは、逆に、もっと「不可思議」になるのか。
Pは、実際に「解らせ」てもらえたのか。不明。
「叙述」とは「遺書」のこと。客観的な〈記述〉ではなく、主観的「叙述」だ。
「己れを尽くした」は〈今の「己れ」として力「を尽くした」〉などの不当な略だろう。これも、〈時と場合によってはもっと力を尽くせるかもしれない〉といった可能性を隠蔽する言葉だろう。語るに落ちる。
「積り」は怪しい。謙遜か。逃げ口上だろう。
「下 先生と遺書」の「と」は〈の〉が適当。「と」である理由は不明。
『こころ』が平仮名である理由は不明。
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ミットソン:『いろはきいろ』#051~088
http://park20.wakwak.com/~iroha/mittoson/index.html
志村太郎『『こころ』の読めない部分』(文芸社)
志村太郎『『こころ』の意味は朦朧として』(文芸社)
(終)