夏目漱石を読むという虚栄
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3100 死に後れ
3120 自己嫌悪
3121 『金明竹』
「遺書」を読み終えたPに、Sの自殺の動機が理解できたのか。〈「先生」は死ぬしかなかったんだな〉と納得できたのか。〈自分が早めに上京して説得すれば「先生」は死ななかったかもしれない〉とは思わなかったか。『こころ』の内部の世界で「遺書」を読むことになる誰か、つまりRは、Pを責めたか。許したか。褒めたか。彼と抱き合って泣いたか。泣きながら笑ったか。Sから生きる勇気をもらったような気がしたか。
作者は、どのような後日談を暗示しているのだろう。不明。
<「こないだからの長じけで、つかいつくして、骨は骨、紙は……ああ、ねこに、紙はなかった……皮は皮で、ばらばらになりまして、つかい道になりませんから、たきつけにしようとおもって、物置きへ(ママ)ほうりこんであります」
(古典落語『金明竹』)>
以前、与太郎は「知らないひと」(『金明竹』)に「傘」を貸してしまった。彼の伯父は馬鹿な与太郎にも覚えられそうな断りを教えてやる。「貸し傘も、なん本もございましたが、このあいだから長じけで、つかいつくしまして、骨は骨、紙は紙と、ばらばらになりまして、つかい道になりませんから、たきつけにしようとおもって、物置きへほうりこんであります」(『金明竹』)と。この「傘」を、与太郎は「ねこ」に変えてしまった。
わかりにくい〈「ねこ」の物語〉はありふれた〈「傘」の物語〉の不適当な異本だ。「紙」が直接に「皮」に代わるのではない。「傘」が「ねこ」に代わったからだ。
〈「殉死」の物語〉は、わかりにくい。「殉死」の「新らしい意義」について詮索するのではなく、わかりやすい原典を探してみよう。〈「自由と独立と己れ」の物語〉では無理だ。これも、やはり、わかりにくい物語だ。
他(ひと)に愛想(あいそ)を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。
(夏目漱石『こころ』「下 先生と遺書」五十二)
〈「殉死」の物語〉の原典は〈自己嫌悪の物語〉だろう。
ただし、〈自己嫌悪〉という言葉は、決してわかりやすくはない。
<生理状態は殆んど苦にする暇(いとま)のない位、一つ事をぐるぐる回って考えた。それが習慣になると、終局なく、ぐるぐる回っている方が、埒(らつ)の外へ飛び出す努力よりも却(かえ)って楽になった。
代助は最後に不決断の自己嫌悪(けんお)に陥った。
(夏目漱石『それから』一四)>
Sも「ぐるぐる」をやる。「ぐるぐる」が「明治の精神」に変わったので、「一番楽な努力」(下五十五)が「殉死」に変わったのだろう。
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3100 死に後れ
3120 自己嫌悪
3122 「アカチバラチー」
『デンスケ』(横山隆一)のドシャ子は「アカチバラチー」と叫ぶ。意味不明。原形は「赤い薔薇が散った」ということだそうだが、原形を知ってもドシャ子の気持ちは想像しがたい。だから、私はこれを使いこなせない。
『ブラック・ジャック』(手塚治虫)のピノ子の「アッチョンブリケ」は、意味不明のようで、そうでもない。文脈によって彼女の気持ちを想像することができる。だから、私は適当に使える。
『魔法使いサリー?』(横山光輝)の「テクマクマヤコン」に意味はない。意味があろうとなかろうと、呪文だから、私がこれを唱えても何も起きない。
吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る。太平は死ななければ得られぬ。南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。難有い難有い。
(夏目漱石『吾輩は猫である』十一)
「南無阿弥陀仏の文字の解釈には種々の説がある」(『ブリタニカ』「南無阿弥陀仏」)という。ワガハイはどんな「説」を信じているのだろう。不明。
「転じて、死ぬこと、物事の尽きること。終わることをいう」(『日本国語大辞典』「南無阿弥陀仏」)というが、ワガハイの場合、通俗的転意で用いているのではなさそうだ。意味がありそうで、意味不明なのだ。「太平」とは自己嫌悪を感じない状態だろう。
ワガハイは「太平」などについて十分に語ってはいない。『こころ』の場合も同様。
夏目宗徒は、〈「太平」を得ないのが偉い〉と思っているのかもしれない。
<私は密かに思っている。漱石が参禅して、其処でもし見性(けんしょう)していたり、悟ったりなどしたとしたらおかしい。却ってそれが無かったところに漱石の人となりや、頭のよさがあったと思っている。
(千谷七郎『漱石の病跡』)>
「密かに」の真意は〈無根拠に〉などだろう。
「参禅」は「約二週間」ということだ。「其処」は「帰源院」だが、この引用の後、千谷はこの寺に関する悪評を仄めかす。「おかしい」というのは、〈「帰源院」は駄目な寺だから、誰であれ、「悟ったりなどしたとしたらおかしい」〉などの不当な略でもある。「見性(けんしょう)」は「自己の本来の心性を見極めること」(『広辞苑』「見性」)で、「心性」は「天性」(『広辞苑』「心性」)で、「天性」は「うまれつきそなわっている性質」(『広辞苑』「天性」)で、ええっと、だから、何? ところで、「道元は不変の心性を認めないのが仏教であるとし、見性を全く否定する禅を説く」(『岩波 仏教辞典』「見性」)という。
「それ」の指す言葉はない。千谷に「無かった」と、どうして、知れているのか。「人となりや、頭のよさ」があるとかないとか、意味不明。
この種の勿体ぶった意味不明の文章によって、文豪伝説は拡散されてきた。
3000 窮屈な「貧弱な思想家」
3100 死に後れ
3120 自己嫌悪
3123 『昭和維新試論』
Nは、個人的な心身の不調と、身近な人々との不和と、明治の社会の混乱などとを、無根拠に関係づけて偉ぶり、何となく独創的な思想が表現できたように勘違いしていたらしい。こうした異様な勘違いが「明治の精神」の隠蔽された意味だ。
<生活の定型喪失にともなう「神経衰弱」「煩悶」「発狂」「自殺」等の現象が明治初年に多く見られたことは、島崎藤村の『夜明け前』や、福沢諭吉の『学問のすすめ』などにその証言がある。
(橋川文三『昭和維新試論』「五 青年層の心理的転位」)>
「生活の定型」は意味不明。「ともなう」は怪しい。これらの「現象」の淵源を「明治の精神」と呼ぶことができる。いつの時代でも、社会の変化をピンチと感じる人はいる。だが、チャンスと感じる人もいる。「喪失」を〈新生〉と感じる人はいる。
暗くて怪しい「明治の精神」は令和も「継続中」だろう。
<しかし、ジャンセンのいう「自己完成の可能性へのオプティミズム」から、懐疑的な「内観的夢想」(introspective reveries)への転位を個人のレベルで正確につきとめることはそれほど簡単な作業でないであろう。ここで私のいうのは、当時青年であった岩波茂雄の言葉を借りていえば、「乃公出でずんば蒼生を如何せん、といったような慷慨悲憤の時代のあとをうけて、人生とは何ぞや、われは何処より来りて何処へ行く、というようなことを問題とする内観的煩悶の時代」(『岩波茂雄伝』)への劇的な推移がどうして生じたのか、そしてその傾向が、のちに日本の進路にどういう意味をもったのかという問題である。もとより、いついかなる時代の青年もその同じ問題に直面したと見ることはできる。しかし、現代に生きる私たち自身のそれとほぼ同じ構造をもち、同じ色どりをおびたものと思われる「煩悶」はこの時期に始まっているのではないだろうか? たとえば「現代人の孤独」とでもいうべき様相が青年心理の中に登場するのはこの時代ではないか、ということである。
(橋川文三『昭和維新試論』「五 青年層の心理的転位」)>
「ジャンセン」は無視。「自己完成」も「内観的夢想」も「転位」も意味不明。
「ここ」の指すものは不明。岩波が登場する理由は不明。
「劇的な推移」でなく、〈喜劇的な衰退〉なら、「問題」にする価値はなかろう。「慷慨悲憤」が壮士芝居で、「煩悶」が新劇なら、芸能界の「問題」だ。
「乃公出でずんば蒼生を如何せん」も「人生とは何ぞや、われは何処より来りて何処へ行く」も意味不明で、気障で、芝居がかっていて、滑稽。こうした胡散臭いスタイルが昭和の「日本の進路」を確実にしたのだろう。
「構造」や「色どり」は意味不明。
「現代人の孤独」は、「青年心理」限定ではない。勿論、日本人限定でもない。
(3120終)