偉さについてキリストのような見方を培う
「愛の動機で仕えることの偉さ」
イエスの生涯中のある出来事は,真の偉さに含まれるものを明らかにしています。
西暦33年の過ぎ越しの祭りに出るため,イエスと弟子たちがエルサレムへ向かっていました。
その道中,イエスのいとこの二人,ヤコブとヨハネが,偉さについて間違った見方をあらわにしました。
自分たちの母親を通してイエスに,『わたしたちがあなたの王国で,あなたの右と左に座るようお申しつけください』と願い求めたのです。
(マタイ 20:21)
「それで,バテ・シバはアドニヤのために話そうとソロモン王のところに行った。すぐに王は立って彼女を迎え,これに身をかがめた。それから,彼は自分の王座に座り,王の母のために座を設けさせ,彼女がその右に座れるようにした」。
ユダヤ人の間では,右または左に座ることは大きな栄誉と考えられていました。
(列王第一 2:19)
ヤコブとヨハネは野心的に,最も優れた立場をとらえようとしました。権威あるその立場を確保したかったのです。
イエスは二人が何を考えているかに気づき,その機会に,偉さについての二人の間違った見方を正されました。
この誇り高い世では,他を支配し命令する人や,指を鳴らすだけで何でも思いどおりにできる人が偉い人とみなされていることを,イエスはご存じでした。
しかし,イエスの追随者たちの間では,偉さとは謙遜な態度で仕えることです。イエスはこう語りました。
「あなたがたの中で偉くなりたい者は,皆に仕える者になり,いちばん上になりたい者は,皆の僕になりなさい」。
(マタイ 20:26,27)
聖書で「仕える者」または「奉仕者」と訳されているギリシャ語の言葉は,他の人のために仕えようとたゆまず勤勉に努力する人を指します。
イエスは弟子たちに重要な教訓を与えていました。つまり,人々に何かを命じる人が偉いわけではなく,他の人に愛の動機で仕える人こそ偉い,という点です。
こう自問してください。『もし自分がヤコブかヨハネだったら,どう反応しただろうか。真の偉さは愛を動機として仕えることにある,という点を理解しただろうか』。
「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも,誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも,“愛がなければ“,わたしに何の益もない」。
(コリント第一 13:3)
この世での偉さの規準はキリストのような偉さを量る規準とは異なる,ということをイエスは弟子たちに示しました。
自分が仕えた人たちに対して,見下したような態度を取ることも,劣等感を抱かせることもありませんでした。
あらゆる人が,男も女も子どもも,富んだ人,貧しい人,有力な人,また罪人として知られていた人も,イエスに接してくつろいだ気持ちになりました。
『さて,彼に触っていただこうとして,人々が幼子たちをそのもとに連れて来るのであった。と ころが,弟子たちは彼らをたしなめた。これを見て,イエスは憤然として彼らに言われた,「幼子たちをわたしのところに来させなさい。止めようとしてはなり ません。神の王国はこのような者たちのものだからです。あなた方に真実に言いますが,だれでも,幼子のように神の王国を受け入れる者でなければ,決してそれに入れないのです」。それから,子供たちを自分の両腕に抱き寄せ,その上に両手を置いて祝福しはじめられた」』。
(マルコ 10:13~10:16)
『すると見よ,その町に罪人である一人の女がいた。イエスがそのパリサイ人の家で,食卓に着いておられることを知ると,彼女は香油の入った石膏のつぼを携えて来た。
そして,彼女はイエスの後ろに立ち,足もとで泣きながら,涙で彼の足をぬらし,自分の頭の毛でそれをぬぐい始めた。また彼女は彼の足に愛情を込めて口づけし,香油を塗った。
イエスを招待したそのパリサイ人は,これを見た時,心の中で言った,「もし,この人が預言者であれば,自分に触っている者は,だれで,どんな女であるか,わかりそうなものだ,彼女は罪人なのだから」。そこで,イエスは彼に答えて言われた,「シモン,あなたに言うことがある」。彼は,「先生,おっしゃってください」と言った。
「ある金貸しに二人の債務者がいた。一人は五百デナリ,もう一人は五十デナリ借りていた。ところが,彼らは返すものがなかったので,金貸しは二人とも,気前よく赦してやった。そこで,二人のうち,どちらが彼を多く愛するだろうか」シモンは答えて言った,「気前よく多く赦してもらった者だと思います」。イエスは彼に言われた,「あなたの判断は正しい」。
そして,イエスはその女のほうを振り向き,シモンに言われた,「あなたはこの女を見たか。 わたしはあなたの家に入ったが,あなたはわたしの足のために水を与えてくれなかった。ところが,この女はわたしの足を涙でぬらし,自分の髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに口づけしなかったが,この女は,わたしが入って来た時から,わたしの足に愛情を込めて口づけしてやまなかった。あなたはわたしの頭に油を塗らなかったが,この女はわたしの足に香油を塗ってくれた。こういうわけで,わたしはあなたに言う。彼女の罪は多いが,赦されている。だから彼女は多く愛した。しかし,少ししか赦されていない者は,少ししか愛さない」。そしてイエスは女に言われた,「あなたの罪は赦されている」。すると,彼と共に食卓に着いていた者たちは,互いに言い始めた,「罪を赦しさえするこの人は,いったい何者なのだろう」しかし,イエスはその女に言われた,「あなたの信仰があなたを救ったのです。平安の中を行きなさい」』。
(ルカ 7:37~ 7:50)
人は往々にして,弱いところのある人のことをもどかしく思います。イエスは,そうは思いませんでした。
弟子たちが時に無思慮だったり口論し合ったりしても,辛抱強く諭し,ご自分が本当に謙遜で気質の温和な者であることを示されました。
「シオンの娘よ,大いに喜べ。エルサレムの娘よ,勝利の叫びを上げよ。見よ,あなたの王があなたのもとに来る。義にかなった者,救われた者である。謙遜であり,ろばに,しかも成熟した,雌ろばの子に乗っている」。
(ゼカリヤ 9:9)
「わたしは心の柔和なへりくだった者であるから,わたしのくびきを負い,わたしから学びなさい。そうすれば,あなたがたは魂に安息を見いだすであろう」。
(マタイ 11:29)
『「ところが,彼らの間では,自分たちのうちでだれが一番偉いのだろうかということについても激しい論争が起こった。しかしイエスは彼らにこう言われた。
「諸国民の王たちは人々に対して威張り,人々の上に権威を持つ者たちは恩人と呼ばれています。ですが,あなた方はそうであってはなりません。むしろ,あなた方の間で一番偉い者は一番若い者のように,長として行動している者は奉仕する者のようになりなさい。というのは,食卓について横になっている者と奉仕している者では,どちらが偉いのですか。それは,食卓について横になっている者ではありませんか。しかしわたしは,奉仕する者としてあなた方の中にいるのです」』。
(ルカ 22:24~22:27)
この筆頭の神の子が残した無私の手本は,偉さとはどういうことかをはっきり示しました。
イエスが地上に来たのは,人々から仕えてもらうためではなく,自分が人に仕えて「さまざまな病気」を治したり人々を悪霊の支配から自由にしたりするためでした。
自分がとても疲れて休息が必要な時でも,常に他の人の必要な事柄を優先し,人を慰めるために進んで行動されました。
「夕方になって日が沈むと,人々は,病人や悪霊に取りつかれた者を皆,イエスのもとに連れて 来た。町中の人が,戸口に集まった。イエスは,いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし,また,多くの悪霊を追い出して,悪霊にものを言うこと をお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである」。
(マルコ 1:32~34)
『それから,使徒たちはイエスの前に集まり,自分たちが行ない,また教えた事柄すべてを報告した。するとイエスはこう言われた。「さあ,あなた方は自分たちだけで寂しい場所に行き,少し休みなさい」。来たり去って行ったりする者が多く,食事をする暇もなかったからである。そこで彼 らは舟に乗り,自分たちだけになれる寂しい場所に向かった。ところが,人々は彼らが行くのを見,また多くの者がこのことを知った。それですべての都市から人々が徒歩でそこに駆けつけ,彼らより先に着いてしまった。そこで,外に出た時,イエスは大群衆をご覧になったが,彼らを哀れに思われた。彼らが羊飼いのいない羊のようであったからである。そして,彼らに多くのことを教え始められた」』。
(マルコ 6:30~34)
人々に対する愛に促されて霊的な面で助けを差し伸べ,ほこりっぽい道を何百キロも旅して王国の良いたよりを宣べ伝えました。
『「しかしイエスは彼らに言われた,「どこかほかの所,近くの田舎町に行きましょう。わたしがそこでも宣べ伝えるためです。わたしが出て来たのはそのためだからです」。
そしてイエスはそのとおり進んで行かれ,ガリラヤ全土にわたり人々の会堂で宣べ伝え,悪霊たちを追い出された」』。
(マルコ 1:38,39)
疑いなく,イエスは人々に仕えることを真剣に受け止めておられたのです。
『そこで,イエスは彼らを呼び寄せて,言われた。「あなたがたも知っているとおり,異邦人の支配者たちは彼らを支配し,偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
あなたがたの間では,そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は,みなに仕える者になりなさい。
あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は,あなたがたのしもべになりなさい」』。
聖書(マタイ20:25~20:27)