東福寺といえば紅葉の名所として通天橋の紅葉が有名だが、
禅宗である臨済宗のお寺として京都五山の一つとして数えられる、
大寺院である。(五山のうち4位)
現在では規模が縮小されているらしいが、
それでも今でも巨大な三門や、方丈、
珍しい東司(とうす:便所)などの建築が残されている。
京都国立博物館では読売新聞主催で、今回、
「特別展 東福寺」が開かれていた。
行ってみようかと思いつつ、後回しにしていたが、
終了間近なことに気づき、急いで行って来た。
読売新聞主催なので割引はなし(T_T)
京都国立博物館
https://www.kyohaku.go.jp/jp/
特別展 東福寺
https://www.kyohaku.go.jp/jp/exhibitions/special/tofukuji_2023/
2023(令和5)年10月7日(土)~12月3日(日)

今回の「特別展 東福寺」は
かつてあった法堂など、より威容を誇った東福寺の成り立ちから、
宝物、開山した円爾(えんに)について、
彼が修行で渡った大陸(宋の国)から持ち帰ったもの、
東福寺の僧で絵師・明兆(みんちょう)の五百羅漢図、
三門に安置されていた巨大仏像など、
多方面から禅宗文化を育んだ東福寺の実像に迫ろうとしていた。

公式サイト
https://tofukuji2023.jp/
第1章 東福寺の創建と円爾(えんに)
第2章 聖一派(しょういちは)の形成と展開
第3章 伝説の絵仏師・明兆(みんちょう)
第4章 禅宗文化と海外交流
第5章 巨大伽藍と仏教彫刻
開山である円爾という人は大陸へ渡って、
南宋の禅宗界の重鎮である無準(ぶじゅん)のもとで修業したという。
この大陸の僧についての展示もあったが、
円爾は大変私淑し、影響を受けたようだ。
このころの中国は良かったのだ。
先進国であり、日本は影響を受け続けた。
中世では盛んに日中交流が行われたという。
そして円爾は日本へ帰るが、その時、仏教の経典を始め、
仏教関係のみでなく様々なものを持ち帰った。
留学するということは、その国の文化も持ち帰ることなのだ。
「帰国後は博多に承天寺を建立。
その後、九条道家の知遇を得て京都に巨刹・東福寺を開きました。」
(京博の説明より)

東福寺では円爾の遺したものも、とても保存状態よく保管されていた。
遺偈(ゆいげ)と称する、臨終の際に書き遺した書が展示されていた。
(重文)
当時の僧は臨終の際、遺偈を書することが慣習だったらしい。

79歳で死去した円爾の筆は、
生涯を精進した彼の人柄をそのまま表すような簡素で、
なおかつ充実した人生を貫き通した人の筆のように感じた。

禅宗ならではの美術品や書も数多く展示されていた。
その中で「虎」という墨で描かれた文字?なのか絵?なのか、は、
小さいが印象的で、禅宗らしい大胆なデフォルメが心に残った。
また絵師である吉山明兆(きっさんみんちょう)という名は初めて聞いた。
江戸時代までは雪舟と並び称されるほど高名な絵師だったという。
東福寺を拠点として活動した絵仏師だったらしい。
明兆が東福寺のために描いた五百羅漢図が14年の修復作業を終えて、
今回、初めて全幅(50図)が公開された。

絵の横に説明図があり、
マンガのように吹き出しがあり、羅漢たちが喋っているセリフが書かれていて、
本図の羅漢たちが何をしているか良く分かる展示方法が面白かった。
五百羅漢図といっても、いかめしいものばかりではなく、
羅漢たちが風呂に入ろうとしていたり、髪を剃ってもらっていたり、
耳掃除をしてもらっていたり。
彼らの修行の合間のひとときを色彩豊かに描いていた。
50幅の大作で、明兆の力量がよく分かる作品群だった。

同じく明兆の「達磨・蝦蟇鉄拐図」は大画面の作品で、
大きさにまず圧倒される。大きすぎて3幅を同時に見ることは出来ない。
よく見られる画題だが、迷いのない筆遣いに力量が感じられる。
東福寺では、円爾の大陸交流で、
中国から持ち帰った様々な品を保管していた。
中には国宝もある。

仏教に関する百科事典「太平御覧」というもの。
当時の活発な国際交流がしのばれる展示だった。
それと同時に当時の僧たちはこうした漢文を読みこなしていたのだ。
大陸へ渡った時も、中国の言葉を理解していたらしいので
それが凄いと思った。
1階に展示されていた仏像彫刻は迫力があった。
東福寺がいかに巨大な伽藍であったかが、仏像から分かる。

二天王立像は息を呑むほど巨大で迫力があった。
他に金剛力士像、四天王立像もあった。
すべて鎌倉時代のもので慶派の仏師だろうと思えた。
写実的で彫刻でこれほど衣服や甲冑の描写が出来るのかというほど、
微細な描写に圧倒された。

仏像部屋は3体だけ写真撮影が可能だった。
大きな蓮弁と、小さな釈迦如来坐像、そして巨大な仏手(ぶっしゅ)。



本来は釈迦如来の左手だったが、火災かあるいは災厄のため、
仏手だけが残されたらしい。
立てて置かれていたが、本来は釈迦如来の膝の上で印を結んでいたという。
巨大さに驚いた。
手だけで2mほどある。
これほどの大きさの仏像がかつて、東福寺に祀られていたのだ。
さぞ、壮観だっただろう。

釈迦如来坐像(光背化仏)は本来、
焼失した仏殿の旧本尊の光背に表された化仏の一つだったという。
奥行きが狭いので化仏として作られたことが分かるという。
この坐像が光背に飾られていたとは。。絶句である。
それだけ巨大な仏だったのだ。

東福寺伽藍図が展示されていたが、
すでに通天橋がある。
大きな寺だとは思っていたが、
かつてはもっとスケールの大きな巨大伽藍だったのだ。
1階の他の部屋に展示されていた扁額も巨大なものだった。
そのスケールの大きさに圧倒されるばかりの展示だった。
エレベーターで3階まで登り、2階、1階と展示を見てゆき、
約1時間半を歩いて見て回ってへとへとになった(>_<)。
腰が悪いのですぐに疲れる。
思った以上に宝物が沢山あり、見るのに時間がかかったこともある。
他にもお坊さん(円爾)の袈裟が展示されていて、
絹製でよく残されているなと思ったり。
昔の人は物を大事にする。
驚くほど保存状態が良い。
東福寺は禅宗寺院だが密教の勉強会(?)もしていたそうで、
密教の法具も多数伝えられ、展示されていた。
展示品は国宝を含め100点以上に及んだ。
東福寺という大寺院の、
想像以上にスケールの大きい、壮大な世界に驚くばかりだった。
(画像は京都国立博物館のサイトからダウンロードしました)

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