明らかに標準化のみが、GNがEMDに固執した理由ではなかった。何年にもわたり、EMDの機関車はほとんど問題を起こさなかった。機関区ではEMD製品に更に親しくなっており、維持管理やオーバーホールのやり方にも習熟していた。また、乗務員も制御席の親しみやすさからEMD機関車を選好していた。更に、マイナーなEMDの特徴、例えば、運転士と助手別々に調整可能な運転席暖房も重要なものとなっていた。助手が比較的暖かい席を好んでいるときでも、機関士は早朝の暗さの中で緊張感を緩まさないように少し涼しめの温度を好むこともあるからである。
GNに限って言えば、馬力競争、そしてEMDのシェアの高さは、1966年にEMDから旅客用機関車として合計14両のSDP-40(3000馬力)とSDP-45(3600馬力)、貨物用として41両のSD-45とカウルタイプのF-45を購入したときにクライマックスに達した。F-45カウルユニットは、モンタナ州ハヴァーをベースとしていた。これは、この地域では普通の氷点下の気候では、乗務員も機関区職員も整備点検するのにフルカバーの機関車のほうがやりやすかったからである。他の機種のむき出しのランボードでは、雪や氷が積もってしまい、アクセスパネルを開け閉めすることも難しかった。また、むき出しの凍結したランボードを歩くことは、特に機関車が動いているときには大変危険なものであった。他方、マイルドな気候で雪や氷の問題が無いところでは、SD(むき出しのランボード)モデルが好まれた。これは、SDやSDPの運転室からの視認性が非常に良かったからである。助手も機関士も機関車の後ろ側の何も見えない状態の列車がすべて走っているかを見るために後ろ側の窓から身を乗り出す必要が無かった。また、牽引機に同乗しているブレーキマンにとっても機関車とそれに続く列車の両方をチェックすることがたやすかった。F-45の機関士や助手は、列車の後方を確認するために運転室から大きく身を乗り出さねばならず、特に夜には、線路沿いの建造物との間隔も限られていることを考えれば、これは非常に危険なものであった。
GNに限って言えば、馬力競争、そしてEMDのシェアの高さは、1966年にEMDから旅客用機関車として合計14両のSDP-40(3000馬力)とSDP-45(3600馬力)、貨物用として41両のSD-45とカウルタイプのF-45を購入したときにクライマックスに達した。F-45カウルユニットは、モンタナ州ハヴァーをベースとしていた。これは、この地域では普通の氷点下の気候では、乗務員も機関区職員も整備点検するのにフルカバーの機関車のほうがやりやすかったからである。他の機種のむき出しのランボードでは、雪や氷が積もってしまい、アクセスパネルを開け閉めすることも難しかった。また、むき出しの凍結したランボードを歩くことは、特に機関車が動いているときには大変危険なものであった。他方、マイルドな気候で雪や氷の問題が無いところでは、SD(むき出しのランボード)モデルが好まれた。これは、SDやSDPの運転室からの視認性が非常に良かったからである。助手も機関士も機関車の後ろ側の何も見えない状態の列車がすべて走っているかを見るために後ろ側の窓から身を乗り出す必要が無かった。また、牽引機に同乗しているブレーキマンにとっても機関車とそれに続く列車の両方をチェックすることがたやすかった。F-45の機関士や助手は、列車の後方を確認するために運転室から大きく身を乗り出さねばならず、特に夜には、線路沿いの建造物との間隔も限られていることを考えれば、これは非常に危険なものであった。