二つに見えて、世界はひとつ

イメージ画像を織りまぜた哲学や宗教の要約をやっています。

4 内なる人

2022-07-26 20:11:00 | 光の記憶
 4 内なる人

 私があの詩を読んですぐにユングを連想したり、自分の体験を無意識と関連づけたりするのには理由があるのです。
それは「私が私を見る」という不思議な体験を過去にもしていたからなのです。
スイスの修道士と同じように私もその自分の原体験を自分に理解できるようにと、心理学や哲学、宗教などを調べました。そして自分の体験の本質について熟慮した末、私が見たのは「無意識の人」であるとの結論に達していたからなのです。その「無意識の人」とは次のような「人」のことです。

引用が長くなりますが、私の力ではうまく説明できないので、哲学者の言葉を借ります。


   内的人格


この無意識は、

  言いかえれば、


 あらゆる人間において

  自己同一的であり、


 それゆえ

  内的人格という


 誰にでも存在している

 普遍的な基礎であり、


 超個人的な

  性質をもった

   ものである。


  ユング 元型論 2章-3



  宇宙的無意識


○心理学的にいえば、

 悟りの経験は


 ある人の人格の

 根底をなしている無意識の


 おのずからなる

 自発なのであって、


 この無意識は  

 普通に想像される

 意識の底の何かではない。


 悟りにおいて目をさまして

 自分に立ち返った無意識は

 一種の

 宇宙的無意識であり、


 一切の個人的意識は

 その骨格として、


 この宇宙的無意識を

 根底にもっている。


 そして、

 各個人における


 かかる意識・無意識

 一切の活動が


 「私はある」、

 「私は存在する」という


 基礎的観念によって

 起こるということである。


 鈴木大拙禅選集3-四 

 「悟りへの道」より



画 パウル•クレー「鈴をつけた天使」







3 無意識/人間の顔をした光

2022-07-26 05:23:00 | 光の記憶

 3 無意識


 ノートに書かれた詩を読み終わるとすぐにユングの言葉が想い起こされました。わりとスラスラとやや断定的に、しかし力強く、

『もし無意識が自分自身を見ることができたなら、それが世界である。』

 確かこれは「元型論」の一節にある文句のはずだけれど••と、本を取り出して読んでみれば次のように書かれていました。


『意識が自分自身を見ることができるならば、それが世界だ、と言うべきである。』

 ユング「元型論」 2章-46


 多少ちがっていましたが、「自分自身を見る」という言葉と「私は地であり、天である」との詩の一節からの連想で先の文句が浮かんできたのでしょうか。あの人は世界のすべてを「私である」と言っていたからです。


 ただ、ユングの本で「意識」となっているところは、今でも私にとっては「無意識」というほうがピタリときます。なぜなら私は本気で信じているからなのです。


「無意識」がもし自分自身を見たならば、その時にはきっとこう言うにちがいない、と。

 『私が世界である! 』



 人間の顔をした光

 当時は気がつかなかったのですが、のちにユングの「元型論」をていねいに読み直すと、そこにはスイスの神秘家
フリューエのニコラウスという人の神秘体験のことが書かれていました。次のような内容です。

 彼は人間の顔をした

 強烈な光をみたのである。


 それを見たとき

 彼は驚愕し


 心臓がこなごなに

 砕けるかと思えた。


 そのため彼は

 恐怖に襲われて


 すぐさま顔をそむけ、

 地面に倒れた•••


元型論2章―13


 そこには単なる光ではなく「人間の顔をした光」とはっきり書かれています。このような具体的な表現はその信頼性が高いのですけれど、どのような顔であったかまでは書かれていません。

 修道士ニコラウスはこの自分の原体験を自分に理解できるものにしようと苦労したそうです。そして自分の幻像の本質について熟慮した結果、必然的に彼の見たものは、聖なる三位一体そのもの、つまり『最高善』永遠の愛そのものにちがいないという結論に達したそうです。

 さらにユングの解説によれば、この幻像を「ヨハネの黙示録」のキリスト像と全く同じ性質のものとみるのは全く正当である、と述べているのですが、この意見など私にどうもピンときません。彼らにとっては当然のことなのでしょうが、二人ともキリスト教の教義に合わせたかのような解釈をしている印象を受けます。

 •••何かしら似た体験のようなので気になるのです。

 


*聖ニコラウス(フリューエ)1417年-1487年

 彼が見た「神の怒りの顔」をもとに描いたという、中央に神の顔がある「三位一体の絵」を見ましたが、なんと仏教のマンダラにそっくりでした。


画 パウル•クレー「セネシオ」




2 私がいた

2022-07-25 19:44:00 | 光の記憶
 2  私がいた

 つぎの瞬間ものすごい衝撃を受け、私はまるでハジキ飛ばされたかのようにベッドに跳び移りました。なぜなら私は「自分自身」を見たからです。それは圧倒的な感覚でした。いわば“絶対的な確実性”と言えるものです。


 私がいる!
 私が存在している! 

この絶対性とこの確実性です。

 私はこのことを知りませんでしたし、全く気づきもしませんでした。私は自分が存在していることを知らなかったのです。この瞬間に、はじめて、自分の存在していることを知ったのです。
 
 もうこのあとはメチャメチャです。涙があふれ出てきてどうしょうもどうしょうもありません。フトンに顔を押しつけて泣いて泣いて泣きまくりました。喜びと後悔とが入り混じったものです。

 •••やがて落ち着きを取り戻し、ベッドから降りてティッシュで涙をぬぐい、しばらくの間ボーゼンとしてすわっていました。

 

 すると今度は胸の奥深くからとてもアタタカイものが流れ込んできて、私の心をそのあたたかさで包みこみました。それは感情のようなものでしたが、今までに一度も味わったことがなく、このときに初めて味わうものでした。

 それは「愛の心」であり「慈悲の心」なのでした。この愛、この慈悲に包まれたなら、そのありがたさに誰であろうと涙があふれてこないはずがありません。

 これが  
  愛の心なのか

 これが
  慈悲の心なのか

そう感じつつ、私はまたベッドに移らねばならなくなりました。そして先ほどのように泣いていた最中に、どこからか声が聞こえてきました。

「あの人」が、内から話しかけてきたのです。しかし泣いていたせいもあってか、よく聞き取ることができませんでした。それでもしだいにハッキリと聞こえてきました。
「わたしは•••」と言っているようでした。私はその言葉を記憶しながらあわててノートとペンを探し、それをひったくるようにして、急いで書きなぐりました。そうしてなんとか終わりまで書きとることができました。

 •••言葉は消えてあたりは静かになりました。私は余韻に浸ったままヘタリ込んでいました。内心ではずっとこのままの状態でいたかったのだけれども•••すると少しの間をおいてあの人はささやくように言いました。「わがままを言うな」と。そしてどこへともなく消えてしまいました。

 私は一人取り残されたような気分になりました。私はあんなにハッキリとあの人を見たし、その声も心の内で確かに聞いたのです。しかしもうあの人はどこにもいません。部屋の中は何事もなかったかのように静まりかえり、聞こえてくるのはファンヒーターの音ばかり。

 時間にして30分、いや、さらにもっと短かったかもしれませんが、今しがたの出来事は本当に現実だったのだろうかと思いながらベッドに目をやると、そこには一冊のノートが開かれていて、そこには一編の詩が書き留められていました。私はその詩に題名をつけ、今でも大切にしまっています。 


  私はあなたである


 私は

 道ばたに転がる石、


 そよぐ風、

 ゆれる木々である。


 私は、あなたの

 踏みしめている大地、


 あなたの

 見上げる天空である。


 私は

 あなたの見る光、


 あなたの見る

 暗い闇である。


 あなたの苦しみは

 私の苦しみである。


 あなたの涙は

 私の涙


 あなたの喜びは

 私の喜びである。


 そして

 あなたの幸福こそが

 私の幸福なのである。


 なぜなら私は、


 あなた自身

 なのだからである。



画 パウル•クレー「星の天使」



1あらわれた光

2022-07-25 09:30:00 | 光の記憶

 1 あらわれた光


 20**年1月28日。


 妻は仕事に子供は学校にとそれぞれ出かけたあと、私は一人ノソノソと起き出しました。特別する事もないありふれた仕事休みの一日の始まりです。

 外は寒いし遊びに出かけるのもおっくうなので、昼までゴロゴロして過ごし、午後から自分の部屋にこもって図書館から借りてきた本を開き、ゆっくり過ごしていました。べつに何の変哲もない平凡な日々の、ただ何となく時間が過ぎるだけの休日の昼下がりです。

 物憂くて眠くなるような時が流れます。そんな記憶の片隅にすら残らないはずだったこの日が、このあと一瞬にして、私の人生で最も忘れられない日になったのです。 

 午後の2時を過ぎた頃だったでしょうか、読み疲れたのでヒト息入れようと視線をあげ、ボンヤリと目の前の書棚を見つめていました。

 すると何となく辺りが明るくなったような気がしました。オヤッ? と思う間もなく、不思議な光がどこからともなく射し込んできて、部屋の中が明るくキラキラと輝きはじめたのです。それが普通の光でないことはすぐに分かりました。

 「あの光が現れた!」

「来た!」と思いました。この光は以前に見たことがあったからです。この光に照らされたものすべてはキラキラと輝きだすのですぐにわかるのです。

 じっと見つめていると、部屋にみちていた光がその輝きとともに動きはじめ、スーッとひと所に集まりました。それは、散乱していた光がレンズを通して一点に集まるような、あるいはカメラのピントがピタリと合えば、それまでボヤケて見えないでいたものがはっきりと見えてくるような、そんな感じでした。

 それはスーッと集まり、一つの円のようなまとまった形になりました。それを見た瞬間、私は「オーッ!」と心の中で叫びました。

 それは何とも言いようのない奇妙なものだったからです。その集まった光、それがひとつのかたまり、<意識>のようなものとなり、ひとりの人の「顔」のように見えたからなのです。

 それはじつに不思議な光景でした。光だけでできたひとりの人間の、その<顔>が私の目の前に、それこそ手を伸ばせば届くほどの近くで、空中に浮かんで存在しているのです。

 私はギョッとしました。なぜなら、その<顔>が、その光の中から私を見つめたからです。そして目があった時、さらに信じがたいものを見ました。

 驚いたことに私の見たその人は私なのです! アチラから見つめているのが、こちらにいるこの私なのです。二人の「私」がいて顔を突き合わせて互いに見つめ合ったのです。

「アッ! 同じで別々だ」

これがその時の第一感です。

見ている私と見られている私、意識している私と意識されている私、これが同じ私であり、しかも別々の私だったからなのです。奇妙な表現ですが実際にそう見えるからこれでいいのです。


 


心の絆/わたしはあなた

2022-07-24 19:32:00 | イスラム/スーフィズム
 心の絆

リザー・アッバース『宮廷の恋人たち』(イラン1630年)
 

幸せなひととき、
宮殿に共に座るあなたと私。

姿はふたつ、影もふたつ、
けれど魂はひとつだけ、
あなたと私。

あなたと私、庭を歩けば、
木立の色も鳥の声も永遠を奏でる。

天空の星がこっそりと見つめてくるから、
月を鏡に視線をかわす、
あなたと私。

あなたと私、陶酔に混ぜ合わされて、
切り離しようもなくひとつの、あなたと私。

あるのはただ喜びだけ、
あなたと私、
二度とふたつに離れない、邪魔をするものは何もない。

きらきらした羽で飾られた天の鳥たち、
嫉妬で彼らの胸は焼け焦げんばかり。

こんな場所で、こんな姿で、
笑い声の光をまき散らす
あなたと私。

そして何よりも驚くべき奇跡はこれ、あなたと私、
あなたと私が同じ世界の片隅に、共に座っていること。

この瞬間、共に座る
あなたと私、
あなたはイラクに、
私はホラーサーンに。

      『四行詩集』38.

  

 恋の在り処 

私の胸に恋だけを
置き去りにして、
恋人はどこにいるのだろう、
私はここにいるのに。
一体いつまで待てば
「私」は「私達」になれるのだろう。

きっといつまで待っても
「私達」にはなれないのだろう。
私が「私」を捨てない限りは、
私があなたを「あなた」と呼ぶ限りは。

私はあなたに恋をした。
恋があなたそのものだった。
私はあなたと結ばれた、
その結び目があなただった。

これがあなたの仕掛けた罠、

「私」と「あなた」の境界は消え去り、いつか「私とあなた」も消え去って、
恋だけが夜の空に瞬き続ける。

『精神的マスナヴィー』1-1776


 わたしはあなた

 恋をしている男が恋人の家のドアをノックしました。
 「だれ?」
内側から恋人が言いました。

「わたしです。」と男が答えました。

「帰ってください。この家にはあなたとわたしの二人は入らないのです。」

 拒絶された男は砂漠に行きました。そして恋人の言葉について思いめぐらしながら、何か月も続けて黙想しました。

 ・・ついに彼は戻ってきました。そして再びドアをノックしました。

  「だれ?」

「わたしはあなたですよ。」
ドアは直ちに開きました。

『スーフィーの寓話』第42話