二つに見えて、世界はひとつ

イメージ画像を織りまぜた哲学や宗教の要約をやっています。

すべてに宿る魂

2022-07-23 22:46:00 | イスラム/スーフィズム
わたしはすべてに宿る魂

わたしは日にちらちらする塵、わたしは日輪。 

塵に言う、そこに居て、と。
日輪に言う。廻って、と。

わたしは朝の微光、
わたしは夕べの香り。

わたしは森のざわめき、
海のうねり。

わたしはマスト、舵、舵手、船。わたしは船の乗り上げるサンゴ礁。

わたしは生命の樹、そしてそこにいるオウム。

沈黙、思考、おしゃべりと音。わたしは笛の音、人の心。 

わたしは石に散る火花、
金属の黄金の光。

ロウソクと周りを舞う蝶。
バラとバラに酔う夜鳴き鳥。

わたしは物をつなぐ鎖、
世界を結ぶ環。

創造の梯子段、上りと下り。
わたしはあるもの、
そしてあらぬもの。

わたしはーおゝ、
あなたの知っている、
ジェラールッディーンと申す者。

わたしはすべてに宿る魂。

「西と東の神秘主義」p111~112より/R・オットー






アナー・アル・ハック

2022-07-22 08:06:00 | イスラム/スーフィズム
 神化

蠅が蜜に落ちる。
体のどこもかしこも、
部位の別なく
蜜に絡めとられて動かなくなる。

「イスティグラーク」、
すなわち
忘我の境地というのは、
このような状態を指す。
自意識を消滅せしめ主導権の全てを放棄した者。

その者より生じるいかなるものも、全てその原因はその者には属さない。

水に溺れてもがいている者、あがいている者、「溺れてしまう、沈んでしまう」と助けを求めて叫ぶ者、そうした者は未だ「イスティグラーク」に至ってはいない。

『アナー・アル・ハック』

すなわち「われは真理(神)なり」という言は、
この境地を象徴するのにまさしく的を得ている。

人びとは考える。何という暴言、何という傲慢、と。

人びとは考える。
『アナー・アル・アブド』、すなわち「われは神のしもべなり」、という言こそ真の謙譲を表わすのにふさわしい、と。

断じて違う。

『アナー・アル・ハック』

「われは真理なり(神なり)」こそが、真の謙譲を表わす言である。

『アナー・アル・アブド』

「われは神のしもべなり」と言うとき、その者は未だふたつ以上の存在を認めているのである。しもべ、などと上辺では卑しみつつも、しもべたる自己と神とが同等に存在する、と主張しているのである。自己などというものを、未だ捨て切れずにいるのである。

『アナー・アル・ハック』

「われは真理なり(神なり)」と言うとき、その者は自己を消滅し尽くしている。
そのとき、そこに自己などというものは存在しない。
ただ神のみが存在する。

これこそが真の謙譲、最大の奉仕である。
     ルーミー詩撰より


 あなたは翼を持っている。それを使うことを学び、そして、飛び立ちなさい。
         ルーミー 
 

 私は空を飛びたかった

   

 ある晩、礼拝が終わり、夜間に定められたコーランの朗誦を終えたのち、私は瞑想にふけっていた。 

 恍惚におちいったとき、私は次のようなヴィジョンを得た。そびえ立つハーンカーがあった。それは開いており、私はハーンカーの中にいた。

 突然私は自分がハーンカーの外にいるのがわかった。宇宙全体がそのあるがままの姿において光からできているのが、私にはわかった。あらゆるものは一色になった。そして全存在物の微粒子は、おのおのの存在に特有の方法で、おのおのに特有の力強さで「アナー・アルハック」(我は真理−神−なり)と宣言した。私は、彼らがいかなる存在によってこのような宣言をさせられたのか、理解できなかった。

 このようなヴィジョンを得たのち、陶酔、法悦、強い願望、異常な愉悦感が私を襲った。

 私は空に飛び立ちたかった。しかし、何か樹に似たようなものが私の足もとにあり、そのために私は飛び立つことができないのだとわかった。

 私は、むやみやたらに地面をけとばしたので、ついに樹を払いのけることができた。

 弓から射られた矢のように、いや、それよりも百倍も強く、私は立ち上がり、遠くへ飛んで行った。

 第一天に着いたとき、月が二つに裂けるのがわかった。わたしは月を通り抜けた。この「不在」の状態から戻ったとき、私は再び「現存」の状態にいることを知った。

シャムス・アッディーンディン・ラーヒージ(1516年没)
 平凡社「スーフィー」p135より

 

 


光はひとつ

2022-07-21 06:06:00 | イスラム/スーフィズム
 光はひとつ
   

 ランプはそれぞれ違っても、放つ光は同じひとつ。
光、それははるか彼方から届けられる。

 あなたがランプに眼を奪われ続けるのであれば、あなたはあなた自身を奪われてしまう。

 ランプの種類は数限りなく、各人の嗜好もまた然り。あなたの視線を光に転じ、光そのものを見つめよ。そうすれば、あなたは地上における事象に特有の、二元性の限界から解き放たれるだろう。

 そのようにして新たな視線を獲得すれば、イスラム教徒、ゾロアスター教徒、ユダヤ教徒の違いは、依って立つ位置の違いに過ぎないことが理解できよう。

『精神的マスナヴィー』3-1259. 


ならわしとひらめき

2022-07-20 06:10:00 | イスラム/スーフィズム
 ならわしとひらめき
  
耳がもたらすものは、
幾重もの媒介を経由している。
だが愛する者の目は、
愛されし者とじかに繋がっている。

耳から得られるのは、
「至福」についての語らいである。
だが愛する者の目は、
至福それ自体を得ている。

耳から得るものは既に変質している。
だが目は、根源の変容そのものを得ている。

もしもあなたが火について
知識を得たと確信するなら、
けれど言葉によって語られた「火」がその知識の全てなら、
あなたは未だ火を知らず、
未だ料理されてもいないのだ。

火そのものに触れよ、自らを料理せよ、
他人から聞かされた知識を根拠に知ったと思うな、
疑うこともせずに、確信の裡に留まるな。

直観の確信は、実際に焼かれること無しに得られはしない。
火の裡に座せ、もしもあなたが真にこの確信を得ようというなら。

耳も鍛えれば目と同じ働きをするようになろう、
でなければ、耳は言葉を捉えられないだろう、

言葉は耳と耳の間にこぼれ落ちるだろう、
心に届くこともできないだろう。

『精神的マスナヴィー』2-85


不老不死の樹を探す話

2022-07-19 20:51:00 | イスラム/スーフィズム
生命の樹-カルパヴリクシャ(如意樹)はインド・ヒンドゥー神話に登場する空想の木で、宇宙を統括する帝釈天(インドラ神)の楽園に生えていると言われています。高さは10ヨージャナ(由旬)〈1ヨージャナ≒14.4km〉あり、願をかけるとどんな望みでも叶えてくれる力があると信じられてます。稔り多い豊かさと幸福の象徴といえます。

  カルパヴリクシャ


 果実は黄金色をしてとても香りがよく、この木からその果実を受領したものは神々と同じように永遠の命が約束されると考えられています。


 不老不死の樹を探す話

 学問を修めたある者が、ある日ある物語を語って言うには、「インドに、かくかくしかじかの樹がある。その樹にみのる果実を手に入れて食した者は、決して年を取らず死ぬこともなくなる」。
 ある王が、ある正直者からこれを聞き、たちまち木の実が欲しくてたまらなくなった。そこで学問所に勤めるある優秀な者を選び出し、探索のためにインドの地へ使節として赴かせた。

 王の使節は、その樹を探して何年もの間かの地をさまよい続けることになった。町から町へ、島も山も、平野も、ありとあらゆるところを探し尽くした。 ー訪れたことのない場所はもはや残されていなかった。木の実について尋ねると、皆彼をからかって言った、「どこぞへ閉じ込められていた狂人でも無い限り、そんなものを探そうなんて思いつきもしないよ」。誰もが、彼を嘲って軽口をたたいた。ある者は言った、「ご立派なことだなあ。おまえさんほど心の澄んだ賢い者なら、結果を出せないはずがないよ。せいぜいがんばることだな、無駄に終わるってことはないだろうよ」。

 そんな皮肉混じりの誉め言葉に、彼は別の意味で打ちのめされた。彼にとり、それは本当に殴られるよりも耐え難いことだった。皆が皆、揃って嫌みっぽく彼を褒めちぎり、言うのだった、「おお、貴い使節どのよ」「どこそこに、それらしく桁外れに大きな樹があるよ」「いやいや、どこそこの森に青々として高い樹があるよ」「いやいや、どこそこの樹は枝も並外れて大きいんだ」。

 王の使命を果たそうと、一本気に張り切って探索を続けていたこの使者に、あらゆる人々がそれぞれに異なる話を吹き込んだ。彼は数年に渡り旅を続け、その間も王から彼の許へ、絶えず金が送り届けられていた。

 異郷で苦労を重ねるうちに彼はすっかり疲れ果て、これ以上探し続けることは出来ないほど消耗し切ってしまった。探し求めるその樹について何の手がかりもなく、噂話の他は何ひとつ見出せなかったのだ。彼の希望の糸はぷつりと断たれた。彼が探し求めるものは、ついに見出されることなく終わった。彼は王の許へ戻ろうと決めた。帰る旅路で、彼は苦い涙を流した。

 失望しきった使節が帰路で通りかかったある土地に、非常に賢明なシャイフがいた。彼は高潔なるクトゥブの一人であった。彼は言った。「こうして希望を失った身だもの、彼の許を訪ねてみよう。そうして彼の館の敷居をまたぎ、新たな旅路への門出としよう。彼に祈ってもらおう、そうすれば私の再出発にも何かしらご加護があるかも知れない。どう転んでも、私の心を奮い立たせるものはもう何も無いのだから」。目にいっぱいの涙を浮かべ、彼はシャイフのところへ行った。まるで雲のように涙の雨を降らせつつ、「おお、シャイフどの」、彼は叫んだ、「どうかお情けを。憐れんで下さい、私は絶望の淵におります、慰めが必要なのです」。彼(シャイフ)は言った、「遠慮なく話すがよい。おまえ様を絶望させているのは何なのか、おまえ様自身は何を望み、何を考えているのか」。

 彼は答えた、「私はいと高き王に選ばれて、ある特別な樹を探し出すよう命じられた者です。世界中の何よりも珍しく、その果実は生命の水を湛えているという樹を。私は何年もその樹を探しました。ですが何の手がかりも得ることはできませんでした。お調子者たちのからかいとあざけりの他は、何ひとつ残らなかったのです」。これを聞いたシャイフは声をあげて笑った。「おまえさま、ちと迂闊じゃったの。知らなんだか、樹は樹でもそれは賢者の知識の樹のことじゃ。確かに飛びぬけて高く、飛びぬけて大きく、飛びぬけて広く枝を伸ばす樹ではあるがの。神の大いなる海を目指して四方八方に根を張り巡らせ、生命の水を吸い上げて育つ、いわば生命の水そのものの樹じゃよ。


  


『樹』と聞いて、おまえさまは形ある樹を追い求めてしまったのじゃな。それでは迷うのも道理じゃ。形あるものを追い求めた時点で、真理に背いてしまうことになるからのう。真理を置き去りにしたのでは、何を探そうが見つかりはせぬ。ある時には、それは『樹』の名で呼ばれる。またある時には、『太陽』の名で呼ばれる。ある時には『海』とも名づけられ、またある時には『雲』とも名づけられておる。どの名も、たどれば同じひとつの根源から生じる無数の働きに対して与えられたものじゃ。そうした無数の働きのひとつに、永遠の生命というのも含まれておる。根源はたったひとつじゃが、そこからもたらされる働きは到底数えきれるものではない。更にその働きのひとつひとつが、数えきれないほど多くの名で呼ばれておる。出来る限り、ふさわしい名で呼ぼうと考えてのことではあろうがの。おまえさまにも『父』と呼ぶ人がおるじゃろう?だがおまえさまが『父』と呼ぶその人も、別の者からすれば『息子』であったりするじゃろう?それと同じことじゃ。

 ここにある人物がいるとしよう。誰かからは極悪人だ、敵だと思われておる。しかし別の誰かからは、恩人だ、友だと思われておる。百人いれば百人が、それぞれ思った通りの名で彼を呼ぶ。しかし彼という人物はたった一人じゃ。加えてこれほど多くの呼び名があるにも関わらず、『これぞ完全に彼を説明した名』と言うに足る名はひとつもないときている。名なるもの、かくも頼りなきものなのじゃ。かようなわけで、名などというはかなきものを、しかも自ら課したのでもない、誰ぞ他人に課された使命として追い求める者は、やがては挫折し失望することになる、ちょうど今のおまえさまのようにな。さておまえさま、何故にいつまでも『樹』などという名にしがみつき続けるのじゃ?

『名』にこだわるな、形あるものを追い求めるな。そちらへ行けば、待ち受けるは苦い失意と悪しき運命のみ。名など捨て置け。働きそのものを見よ。そうすれば、あらゆる働きをもたらすたったひとつの根源へと至る道も見えてこようぞ」。

 人類の不和は、常に「名」と「名」の差異によってもたらされる。「名」ではなく、「名」が指し示す「実」を知り、そちらへと向かって一人ひとりが歩みを進めるとき、そのときこそ平和がもたらされることだろう。

「精神的マスナヴィー」2巻3641ー3680