二つに見えて、世界はひとつ

イメージ画像を織りまぜた哲学や宗教の要約をやっています。

アッラーの啓示

2022-07-13 21:13:00 | イスラム/スーフィズム
メッカから数キロ離れたところに、ヒラーという小高い丘がある。611年、すでに40歳になっていたムハンマドは、ときおり、夜通しこの丘の洞穴にこもることを習慣としていた。乾燥して草木の生えないヒラー山は瞑想にはうってつけの場所だったからである。魂の邪魔をするものはなにもないこの丘で、彼は神の啓示を授かる・・・

啓示を受けた洞窟の岩盤にその旨が記載されている。wiki
   

ヒラー山はムスリムの巡礼者がきそって訪れる場所であるが、山の入口には、「この山は本来は神聖視されるべきものではない」という断りが記されている。wiki


 アッラーの啓示

 私(ムハンマド)が眠っていると、彼(ガブリエル)は
文字の書かれた錦の布を持って私の前に現れ、「誦め、よめ」と言った。私が「何を誦むのか」と言うと、その布で私の首を締め上げたので、死ぬかと思った。このようなことが三度も続いた。

 彼は言った。《誦め、「創造主であるお前の主の名において、主は凝血から人間を創造した」。
誦め、「お前の主は寛大このうえなく、ペンで教えた。人間に未知なることを教えた」。(96章1−5節)

 私はそれを誦んだ。誦み終わると、彼は私から去った。私は眠りからさめたがそれは心に書きこまれたかのようだった。

 そこを出て、山の中を歩いていると、天からの声を聞いた。「ムハンマドよ、お前は神の使徒である。私はガブリエル」。天を見上げると、男の姿をしたガブリエルが、両足を地平線にそろえて立ち、「ムハンマドよ、お前は神の使徒である。私はガブリエル」と言っていた。私は、彼を見て立ちすくんだまま、進むことも戻ることもできなかった。顔をそむけようにも、ガブリエルの姿は地平線のあらゆる方向に、同じように見えた。前に進むことも、後ろにさがることもできないまま、その場に立ちつくしていた。
 
ムハンマドの前に現れたガブリエル(ジブリール)
 

 怖ろしくなったムハンマドは、ふるえながら、おぼつかない足どりで山をおりた。冷たい汗が額をながれた。顔はやつれ、両目は熱をおびて輝き、両肩はひきつったように小刻みにゆれ、あまりの狼狽の大きさに、山の崖っぷちから身を投げることまで考えた。胸苦しい、息のつまりそうな荒々しい感情がムハンマドをとらえた。

 ムハンマドは、なにを見、なにを聞いたのか。この時に彼はほぼ40歳。人生の試練にきたえられた、分別盛りの商人を、これほどまでに動揺させたものは、いったいなにか。サタンだろうか。だが、どうやらそれは、神の使い、天使ガブリエルが、ムハンマドにその前途を告げにやってきたようであった。そのことをムハンマドが確信するには、さらにくだされる啓示を待たねばならなかった。

 この夜、ムハンマドは、ヒラー山での一件を妻のハデージャにだけ打ち明けた。ハデージャはこの一件を知ってからも終生ムハンマドの支えとなる。

 つぎつぎに下される啓示は、ムハンマドにとってあいかわらず苦しい試練ではあったが、やがて慣れてきた。啓示のときには、何時間も酒に酔ったような放心状態が続き、からだは震え、たくさんの汗をかいた。そして鎖がすれるような、鳥の羽音のような音が聞こえてくるのだった。ムハンマドは、のちにこう述べている。「啓示が下されるときは、いつでも魂が抜けたような気になったものだ」。

 神が人間に直接語りかけることはあり得なかった。ムハンマド以前にも、アダム、アブラハム、モーセ、イエスのような預言者があらわれたが、公けにされた法は、すべて人間の手で書き写されたものだった。しかし、ムハンマドは、神の声が自分に伝えるように命じたことばを、ひたすら「誦む」ことにつとめた。聴衆を前にしての、この荘厳な読誦は、アラビア語でクルアーンとよばれ、ここからムスリムの聖典「コーラン」ということばが生まれた。

創元社「マホメット」
岩波書店「預言者ムハンマド伝」より



生命の根源にある意識

2022-07-13 06:03:00 | 日記

 生命の根源にある意


   ピカソ「夢」
  

 二つの像が集まり合って、同時に二人の異なる人間をあらわしながら、しかもそれが一人の人間でしかない・・・


 このような夢が覚醒の状態における概念の相互浸透についてわずかながらある観念を与えてくれるだろう


 実のところ、生命は心理的な秩序に属する。心的なものの本質は、相互に浸透しあう錯綜した多数の項を内包しているところにある。


 生命の根源にあるのは意識、いやむしろ超意識である。けれどもこの意識は、一つの創造要求であり、創造が可能であるときにしか、自己自身に対して姿をあらわさない。


 この意識は、生命が自動性に堕しているときには、眠りこんでしまう。しかし選択の可能性が蘇るやいなや、この意識は目をさます。


 自然科学が反復可能な一般的法則であるのに対し、歴史科学が対象とする歴史は反復が不可能である一回限りかつ個性を持つものである。


 私たちの意識は自然的というより歴史的なものである。意識には記憶というものが必要だからである。


 単なる反応は意識ではない。意識は関係を知ることであり応答することである。

  ベルクソン   『時間と自由』2章

         『創造的進化』3章より


  イマージュ     
   

 直観とはどんなものでしょうか。哲学者本人がそれを定式化できなかったのですから、私たちにそれができるはずはありません。しかし私たちは、具体的な直観の単純さとその翻訳である抽象概念の複雑さとの中間にあるイマージュなら、何とか把握して定着することができるかもしれません。


 このイマージュは逃げ足がはやく、本当に消えやすいものです。それはおそらく、哲学者本人も気づかないままに彼の精神に付きまとい、彼の思索の紆余曲折に沿って影のように後ろからついてくるのです。


 このイマージュは直観そのものではありませんが、しかし「説明」のために直観が頼らざるをえない必然的に記号的な概念表現よりは、ずっと直観に近いのです。


 影のようなこのイマージュをよく観察してみましょう。そうすれば影を投げかけている身体の姿勢を見分けることができるかもしれません。その姿勢を外から模倣するだけでなく、その姿の中に自分が入りこもうと努力すれば、哲学者の見たものを可能な範囲で見ることができるかもしれません。

  『哲学的直観』媒介的イマージュ


  ピカソ「読書する女の顔」

   

   

  

 二つの像が集まり合って、同時に二人の異なる人間をあらわしながら、しかもそれが一人の人間でしかない・・・のイマージュです。







たがいに異なりしかも同一

2022-07-11 11:16:00 | 日記
たがいに異なりしかも同一
    

傷つき潰えてなお混沌に陥ることなく、その世界は乱調の中に調和を秘める。


ばらばらな事物に秩序を見出だすとき、万物はたがいに異なりしかも同一なり。
    「ウインザーの森」より

アレキサンダー・ポープ(1688年- 1744年)はイギリスの詩人。


  ふたつにみえて、
  世界はひとつ。

  互いに異なり、 
  しかも同一なり。

どちらも奇妙な言い回しですが、これが宗教や哲学の直観論理なのです。仏教でよく使われる心身一如とか色即是空なども同じ論理なのでつぎのように言い換えることができます。

 心と身体、
 二つにみえて一つなり。

 色と空、互いに異なり
 しかも同一なり。

仏教用語は難解ですが、色とは見える存在、空とは見えない存在といった意味だろうと思います。
 

一滴の大海

2022-07-10 16:12:00 | 日記
 一滴の大海
 
“You are not a drop in the ocean. You are the entire ocean in a drop.”

あなたは大海の一滴ではなくて、一滴の大海なのだ。
     ルーミー語録


 ルーミーとほぼ同じ時代ドイツではキリスト教のエックハルトがほぼ同じことを言っていました。合わせて読むとルーミー理解が深まると思います。

マイスター・エックハルト (1260年頃ー1328年頃)は、中世ドイツのキリスト教神学者、神秘主義者です。
  

神は唯一の善である。
すべての個々の善はそこに一緒に含まれている。
そこは満ちたるもの、
神性の世界である。
それは「一なること」である。

大海に比して一滴の水は
取るに足らない。
そのように神に比すれば
万物はあまりに小さい。
魂が神をおのが内に
引き入れる時、
水滴は大海に変ずる。

神には欠如も否定もない。
なぜならその本性は充溢であることだからである。

本当に正しくそれを捉えようとする人は、なお善や真理からも、それにただ観念や名称の中でのみ区別の錯覚や影に煩うだけのものからさえも、縁を切る。

その人は、一切の多様と区別を欠いた「一なるもの」のみを信頼する。この「一なるもの」にあっては、あらゆる規定性と特性が消え去り、そして「一」である。
この一者こそが我々を幸福にするのである。
           
ルドルフ・オットー/「西と東の神秘主義」p46より


ジャラール・ウッディーン・ルーミー(1207〜1273 )はペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人。

   

Out beyond ideas of
wrongdoing and rightdoing,
there is a field,
I will meet you there

        ~Rumi~

善行と悪行、
それらの考えのはるかに及ばぬところ、
そこに一つの場がある。
私はそこで
あなたに会おう。
        ルーミー



  



タイトルについて

2022-07-05 18:54:57 | 日記
 ただひとつの息がある
  

私はキリスト教徒ではない、
ユダヤ教徒ではない、
イスラム教徒でもない。
私はヒンズー教徒ではない、
スーフィーではない、
禅の修行者ではない。

どんな宗教にもどんな文化にも属していない。

東から来たのではない 、
西から来たものではない。
海や大地から生まれたものではない 、
天界から来たものではない。
何かの要素からできているものでもない、
この世やあの世に存在するものではない。

アダムとイブのような太古の物語と関係はない。

いいえ
わたしは何者でもない。

居場所は定まらない、
跡を残すことはない、
いいえ 、 
わたしは身体でもない、
魂でもない。

わたしは愛している
あの人のなかにいる。

ふたつにみえて、
世界はひとつ。

そのはじまりも 
その終わりも
その外側もその内側も 
ただひとつにつながる、

そのひとつの息が人間の息(いのち)を吹きこんでいる。

「スーフィーの賢者ルーミー/その友に出会う旅」より

ルーミーの詩「ただひとつの息がある」より

  ふたつにみえて、
  世界はひとつ。

これをタイトルに選びました。簡単な言葉ですが哲学や宗教のキーワードとなる語句です。