二つに見えて、世界はひとつ

イメージ画像を織りまぜた哲学や宗教の要約をやっています。

マカーマート神秘階梯

2022-07-16 06:37:00 | イスラム/スーフィズム
  マカーマート
   神秘階梯

 スーフィズムにとっての修行とは、人間が神に近づくための準備以外のなにものでもない。修行の眼目は自己の行為を神の心に全面的に一致させるとともに、内面的 に人間と神とを隔てる一切のものを徹頭徹尾排除することにある。そのための修行法 を体系づけたものが、マカーマート(神秘階梯)である。

  

 スーフィーの修行は、初歩から奥義まで、通常6つの階梯(段階)をひとつひとつ順を追って進められる。それらはきわめて厳格精綴なシステムに則っている。階梯の数や階梯ごとの修行法は宗派によって差異があるものの、基本構造はおおむね共通している。スーフィーの修行は勝手に自分のみで行うものではなく、必ずムルシドやシャイフないしはピールとよばれる導師の指導のもとで師弟相承されるのである。

 代表的な第6までの階梯、さらにスーフィズムの終着点ともいうべきファ ナー(神秘的合一)にいたる道程は以下の通りである。

第一階梯・悔悟(タウバ)

「階梯」について記されたあらゆるリストの、最初の項目は「悔悟」で占められている。ムスリムの語法では「回心」を意味し、新しい生が始まる転換点を示すものである。一般の信者にとり、「悔悟」とは犯した罪を改悛することを指す。スーフィーの場合は、神を忘れて過ごした日々を「悔悟」する。そして全身全霊を傾け、字義通り「再び神を振り返る」のである。

 慣習的に、回心し新たに入門者となったムスリムは、シャイフと呼ばれる精神的導師に最大限の敬意を払い、甘んじてその指導に自らを委ねる。フジュウィーリーは以下のように語っている。

『スーフィーのシャイフ達が従う規範とは次の通りである。現世を捨てる目的で新たな入門者が彼らの許へやってきたとしよう。最初に、彼らは入門者に三年間の精神的修行を課す。修行の成果を、入門者が充分身に付けることが出来たならそれで良い。だがそうでない場合、彼らは入門者に『道』に入ることは許されないと告げる。

 最初の一年は人に奉仕することが求められる。二年目は神に奉仕することが求められる。そして三年目は、自分の心を見張ることが求められる。人々に対して真の奉仕が出来る者とは、自分を下僕とみなし、自分以外の人々を主人とみなすことが出来る者だけである。すなわち、どのような場合においても自分を除く全てを優れたものとみなし、分け隔てなく奉仕することが自分の義務であると考えるようにならなくてはならない。また神に対し真の奉仕が出来る者とは、何の打算も意図も無く、神が神であるがゆえにのみ祈る者だけである。現世や来世における利益を求めて祈る者とは、神ではなく自分に対して祈る者である。そうした利己的な欲望を捨て、神に向き合うがために祈る者だけが、神に仕えることが出来る。

 最後に、何の迷いも憂いもない者のみが、自分の心を見張ることが出来る。神との交わりが邪魔されないよう、不注意によって生じる思いがけない攻撃から心を防衛しなくてはならない。そのためにも、思考を集中させ心配を取り除く必要がある。

 このように、これらの条件を入門者が満たすことが出来たなら、彼は単なる模倣者ではなく、本物の神秘主義者の証として、「ムラッカア」と呼ばれる修行者たちが身につけるつぎはぎの外衣を与えられることになるだろう。


第二の階梯・律法順守(ワラア)

 これは、通常のムスリムのための義務はもちろんのこと、実行避忌が望ましいとされていることのほか、その適否が疑わしい行為も一切慎み、しかも常に神が自己の行動を注視しているとの自覚をもつことである。

第三階梯・隠遁(ハルワ)と独居(ウズラ)

イスラム教では乞食が原則的に禁止されていて、自分で生活の糧を得なければならない。そこで可能な限り世間から身を引き、人々との交わりを断って現世の束縛を断ち、世俗的欲望を除去することてある。

 ただし、地域などにもよるが、修行者や聖者が乞食をすることはある程度黙認さ れていたようである。有名なイスラム神秘学者ジュナイドは、その弟子シブリーの自尊心を打ち砕くために、あえて1年間乞食をさせているほどだ。

第四階梯・清貧(ファクル)と禁欲(ズフド)

スーフィーの別名がファキール(貧者をいう原義。転じて聖者)であることからも明 らかなように、清貧と禁欲の修行は、諸階梯中、最も重要とされている。清貧とは、生活していくうえで最低限必要なもの以外は一切所有せず、富や名誉や権力 などに対する欲望を全面的に否定することである。あるスーフィーの修行者は、寝る ためのゴザと枕用の煉瓦一個、それに食事用と洗面用を兼ねた皮製の器しか持たなか ったという。
 貧しさはスーフィズムの初歩にすぎない。スーフィーの理想とする清貧はさらに高い。

ジャーミーは言っている。
『貧者は神の意にかなうためにあらゆる現世的なものを放棄する。しかし彼らの多くは三つの動機に強いられている。最後の審判の日に楽な判定が下されるようにとの願望もしくは罰を受けるのではないかという恐怖、天国への願望、精神的平和と内面的平静である。こうして彼らは自分自身を利するために努めているのである。スーフィーを「貧乏人」から区別するのは「自我」の欠如である。』


第五階梯・心との戦い(ムジャーハダ)

 いかに外的行為が制御されていても、内面がともな っていなければまったく無意味である。そのため、この階梯においては、人間の内面 の悪い心、つまり、嫉妬、敵意、高慢、傲慢、怒りなどと戦い、それらの矯正、克服 に努める。

 無知、誇り、ねたみ、残忍、といったこれらの属性は、意志が神に完全に従属し、心が神に集中する時、それらと対立的な善い性質によって消滅され、置き換えられる。スーフィーのいう「自己に死ぬこと」とは「神の内に生きる」ことである。
自己の意志を抹消したスーフィーは、専門用語で「黙従」または「満足」と「神への信頼」の階梯に達したと言われる。

第六階梯・神への絶対的信頼(タワックル)

 これは、個としての自己の意志を放棄してすべてを神のなすがままにゆだねることである。まるで死んでいる人間のように完全な受動性になるのである。こうして自己および周囲に起こることすべてを、神の意志として受け入れるという境地である。
  

 
これらの第1から第6までの階梯をすべて昇り終えると、ようやく神に接近するための 準備が整ったと見なされる。これらすべての神秘階梯を通過したスーフィーは、神に よって霊知(マーリファ)と真理(ハキーカ)と呼ばれる一段高いレベルの意識に引 き上げられるのである。

R.A.ニコルソン「イスラムの神秘主義」岩波新書「イスラム教入門」ほかより



 <iframe id="adg_100409_iframe" name="adg_100409_iframe_name" scrolling="no" style="box-sizing: inherit; margin: 0px auto; padding: 0px; border-width: initial; border-style: none; font-weight: inherit; vertical-align: baseline; display: block; overflow: hidden; width: 320px; height: 100px;"></iframe> 

ズィクルからファナーへ

2022-07-15 08:47:00 | イスラム/スーフィズム
 ズィクル

「ズィクル」とは「(口に出して)言う」、「記憶する」、あるいは単に「想起する」などを意味している。コーランにおいて信仰者たちは、「何度でも繰り返し神を思え」と命ぜられている。これ自体には特に神秘主義的なところはなく、単なる崇拝行為の推奨である。しかし初期のスーフィーたちは、これを神の名や宗教的文言、例えば「神に賞賛あれ」(Subhan Allah)、「神以外に神は無し」(La illaha illa Allah)といった定型句を繰り返し唱えるという修行へと発展。

 ひとつひとつの語に全感覚を傾け、神経を集中させて機械的なイントネーションと共に反復し続ける。このズィクルという修行とその影響に関するガザーリーの以下のような記述がある:
  
  
Ghazālī、1058年 - 1111年12月18日)はペルシアのイスラームの神学者、神秘主義者(スーフィー)。
 
 この(啓示)に至る道は、まず現世の絆を完全に断ちきり、心をそれから解放し、家族・財産・子供・国家・知識・権力・名声への煩わしさから解き放つことである。このようにしてスーフィーの心は、それが存在しようがしまいが何の相違も感じないという境地に到達しなければならない。
 
 次に、どこかふさわしい一隅に一人坐す。孤独を守り、宗教実践も必要最低限に留めなくてはならない。コーランを復唱したり、その意味について考えたりすることは厳禁である。宗教に関わる学問書や伝承の書などを読んでもいけない。そうした類いのことに心奪われるのを避けなくてはならないのである。むしろ、神以外の何ものも心の中に入り込まないように心がけねばならない。

 次に、坐したまま神の名を唱える。「アッラー、アッラー」と口に出してくり返し唱え続け、やがて舌を動かそうとする自己の努力が消え、あたかも言葉だけがひとりでに舌の上を流れるような状態になるまで心を集中し続けるのである。

 次に、運動の痕跡が舌から完全に消えているのに、心はズィクルを続けているような状態になるまでこの行を続ける。するとその言葉のイメージ・文字・形が心から消え、言葉の観念のみがあたかも心に癒着したかのようにそれから離れることなく残るようになる。スーフィーはこの地点まで自己の意志と選択によって到達し、さらにサタンのささやきの誘惑を退けてその状態を維持することができる。
 
 しかし神の慈悲を得られるか否かは、自分の意志や選択ではどうにもならないことなのだ。なすべきことをなしたあとは、かつての預言者たちや聖者たちがそうであったのと同じように、もはや神の開示を待つ他にすべきことは何一つ残っていない。 

 そこでもしスーフィーの期待が真実であり、彼の願いが純粋であり、その修行が健全であり、さらに自己の欲望が心を乱したり雑念が彼を現世の絆に引き戻したりすることがなければ、「真実在」の光が心の中に照り輝く。この光は最初は稲妻のようにすぐ消える。ある時はまた戻ってくる。光はしばらく続く時と、瞬間的な時とがある。持続する場合でも、長い時もあれば短い時もある。それは、次々に幻影として現われてくるときもあり、一度で終わるときもある。

「ガザーリーの祈禱論」p83〜84大明堂発行
「イスラムの神秘主義」p64平凡社

 こうしてスーフィーはファナーへと移行する。

9世紀のスーフィーたちはインド人の調息の行を知っていて、それをおおいに用いた。
 

別のあるスーフィーは、この主題を下記の一文に要約している:

 自己を忘れること

 ズィクルの最初の段階とは、自らを忘却することである。ズィクルの最後の段階とは、礼拝の際に礼拝行為をする自らを忘却し、礼拝行為を意識することもなく礼拝の対象に没入することである。このように没入する者は、礼拝する自分に再び戻らず永遠に没入することになる。これを「消滅からの消滅」(fana al-fana).と呼ぶ。


 ファナー(消滅

 ファナーについてガザーリーは、次のようにいう。

 「スーフィーの目には一者以外には何ものもみえないし、また自己自身すらみえない。彼らはタウヒード(唯一性)の中に没入しており、そのために自己自身さえ気付いていない。その時、彼らはそのタウヒード体験の中で、自己自身から死滅している。自己をみ、他の被造物をみることからも死滅している。」

 ガザーリーはその心理的特徴について、「畏怖の念で潰滅している状態」、「心は歓喜に満ちあふれ、それは身も心も崩れるばかりに強いもの」、「神の真性が完全に啓示され、・・・あらゆる存在の形式が心の中に開示されるほどに心が拡げられる」「太陽の灼光」のごときもの、と説明している。

 ••彼の心は歓喜に満ちあふれる。それは身も心も崩れるばかりに強いものである。彼は、その歓喜と喜悦の重みに自分が耐えているのを知り、驚嘆する。これこそ、直接体験によってのみ知られるものである。

 ••神の真性が完全に啓示され、その結果、全宇宙を包含し、そのすべてを知り尽くし、あらゆる存在の形式が心の中に顕示されるほどに心は拡げられる。この瞬間、全存在があるがままに顕示されるため、心の神秘の光が明るく輝く。これこそ、以前光のヴェールともいえる壁龕により妨げられていたものである。

 ••いまや神がその僕の心の世話役となり、叡智の光で心を照らし出すにいたる。神が僕の心の世話を引き受け、神のめぐみがその上に満ちあふれ、光がさし込んでくると、心は開き、神の国の神秘が顕示される。

 一なる真実在以外には何ものも現われてこないこの神秘的観照は、時にはしばらく続く。しかしまた、時には電光石火のごとく瞬時の出来事に終わる。そして、これが普通の場合で、永く続くことは稀である。
「ガザーリーの祈禱論」p45〜46

ニルヴァーナとファナー

 以上の引用は、ニルヴァーナを目指したブッダの八道説と多くの点で類似しているように思われる。スーフィズムの理論と実践が、少なからぬ範囲に渡り仏教の影響を受けていることは、誰であれその論拠を研究した者ならば決して否定出来るものではない。ニルヴァーナとファナーの歴史的な接続点については未だ推測の域を出るものではないが、しかし大いにあり得ることではある。

R.A.ニコルソン「イスラムの神秘主義」
岩波「イスラム教入門」ほか


ズィクル(意識の階梯)

2022-07-14 19:50:00 | イスラム/スーフィズム
  意識の階梯

 ナフス•アンマーラ
   
 いちばん上、すなわち意識の表面をあらわす部分が、「ナフス•アンマーラ」である。心の感性的、感覚的な場所であり、スーフィーはこれを欲情と情念の場として表象する。

 ズィクルの行を本格的に実践し始めた修行者が、この道をいくらか進むと、彼の意識の第一の層「ナフス•アンマーラ」はいくつかの、すぐそれとわかる特徴的なイメージを生み始める。

 最初に現れてくるのは深い井戸、あるいは地中の竪穴。彼は自分がその穴の底に落ちこんでいると感じる。一寸先も見えない暗やみが彼をすっぽり包みこんでいる。光はまったくない。

 だが、ときおりこの厚い闇の壁をつらぬいてチラッチラッとあやしげな赤い光がひらめく。これは魂の中にすむサタンの不気味な混濁の揺らめく火である。この火を見ると行者は全身に異常な鉛のような重さを感じる。胸は締めつけられ、手足はまるで大きな石でつぶされたような感じになる。さらに修行が進んだあとの段階でもう一度火が現れてくるが、それは澄みきった、静まりかえった火である。

 修行の第一の段階を経てズィクルが深まってくるとイメージが変わってくる。最初、穴の底を満たしていた暗闇が、少しずつ凝固して濃い黒雲になる。そしてさらにズィクルを続けると、なにやら三日月らしきものがほのかに密雲を通して見えはじめ、やがて新月が雲の切れ目にはっきり姿を表してくる。これはズィクルの句の力が心の中にしみ込んで、魂がかなり浄化されたことを表す。魂は第一の層を超えて「ナフス•ラウワーマ」の領域に入りつつあるのだ。そして本当に第二の層に入るとともに、今まで見えていた黒雲が転じて白い層雲となる。

 ナフス•ラウマーナ

 意識の二層目が「ナフス•ラウワーマ」である。ラウワーマとは非難がましいとの意味。スーフィズムはこの層を、善悪、美醜を、判断し、自から及び他人の悪を非難し、糾弾する心の働きの場と考える。

 この層に入ると、魂は昇ってきた太陽のイメージとなって現れてくる。太陽は行者の右ほほから昇ってくる。その印象はじつに鮮明であり、太陽の熱を実際にほほに感じるほどである。そしてその太陽は耳の高さまで、時にはひたいまで、ある時は頭の上まで昇る。ーこういうことが実際に経験されたとき、行者の魂は疑いもなく第二層のナフス•ラウワーマにいる。

 行者はまだ穴の中にいる。ただし、穴の底ではなく出口のそばまで来ている。この状態がまたイメージとなって表れてくる。すなわち、穴を満たしていた暗い霧のまんなかに美しい緑の火が見えてくる。これは世界の中心にある巨大なエメラルドから発する光である。このエメラルドは神の国、神聖な空間、神の臨在する場所への入口である。そしてこの超自然的な緑の光に導かれ行者はいよいよ穴から外へ出る。これがナフスの第三の層「ナフス•厶トマインナ」である。ここから人間における神的な次元が開けてくるのだ。

 ナフス•厶トマインナ

 魂がこの状態に入ると、彼は目の前に一つの円があらわれてくるのを見るだろう。この円は十方に光を発散する巨大な光の泉のように見える自我を超克しつつある彼の目の前に突然、彼自身の本来の顔の円い形が現われてくるのだ。

 それは磨き上げられて塵ひとつ残さぬ鏡の表面のように澄みきった清らかな光の円である。この円はしだいに彼の顔に迫ってくる。そしてついに彼の顔はその円の中に吸い込まれてしまう。

 ―もし、あなたが本当にこういう経験をしたら、この円こそ自分の魂の第三層ナフス•厶トマインナなのだと考えてまちがいない。

 顔の前にあらわれた円がしだいに澄みきってくると、それは明るい光を発出しはじめる。まるで泉から水が湧き出るように光は出てくる。 

 そして彼は気づく。この光は自分の顔から輝き出ているのだと。光は眼と眉の間から噴出する。やがて彼の顔全体は光の円の中に包まれてしまう。

 ―このことが彼に起こったとき、彼の目の前にもうひとつの顔、同じように光り輝く別の顔があらわれる。そして光のヴェールの向こうに美しくきらめく太陽が揺らめいているのが見える。

 この第二の顔こそ、彼自身の本当の顔なのである。この太陽こそ彼の身体の中を揺れ動く「ルーフ(意識の第4層)」の太陽である。つぎに、彼の全身は「純粋性」の中に沈んでしまう。

  見よ!そのとき、

 彼は自分の目の前にまぶしいばかりの光を発する光の人が立っているのに気づく。そして彼は、自分の全身からも光が発していることを感知する。

 やがてヴェールが落ちて、その人物の本性がすべて明らかとなる。彼が、彼の全身ですべてを知覚するのはこのときである。内的ヴィジョン、すなわち超感覚的知性と呼ばれるのは、このことである。

 光の視覚器官は、まず眼が開き、次に顔、やがて胸が開き最後に身体全体が開く。


 ルーフ

 意識の第四の層は「ルーフ」である。この段階において魂は完全に聖なる領域、神聖な領域、神的世界に入る。スーフィーはそれを精神の黎明として体験する。いわゆる照明体験である。

 シッル

 最後の層は「シッル」である。シッルとは「秘密」という意味である。日常意識にとってはまったく閉ざされた不可思議な世界、闇のまた闇。しかしスーフィー自身の立場からすれば、それこそ第四層ルーフの光よりもっと純粋な、もっと強烈な光である。しかし、日常的な目にはこの光が、限りなく深い、恐ろしい暗黒として映るのである。

井筒俊彦「イスラム哲学の原像」p71~88 「超越のことば」その他より


 

 

ズィクル(唱名)

2022-07-14 08:08:00 | イスラム/スーフィズム
  ズィクル(唱名)
  

 スーフィズムの修業方法にズィクルと呼ばれる方法があります。

 なにかをありありと心に思い浮かべること、とくにそのものの名を口に唱えることによってそのものの形象を心に呼び起こし、それを心から離さずに長いあいだ保持することです。

 浄土教で西方浄土のアミダ仏を心に思い、口に御名を唱える、いわゆる唱名、念仏と形式的に共通する修業方法です。

「ラー・イラーハ・イッラッラー」
「アッラーのほかには神はいない。」

 これを繰り返します。

 •••中略•••

 そのうちに神的な光がいずこからともなく差し込んできて魂に浸透し、ついに魂は溢れるばかりの光明にひたされます。そしてこの純粋光明の領域において、行者は自分の第二の「われ」真我に出会い、そしてそれと完全に一体となります。

 このようにして現成した新しい「われ」を、スーフィズムでは「内なる人」とか「光の人」とか呼びます。

 井筒俊彦「イスラーム哲学の原像」p75~82 全集5巻p400
 

  カルブの門
  礼拝用の絨毯
  

 揺れ動く意識の表面の下に、静かな、物音一つしない領域が開けます。

 ここではもはや第一層の
感覚と欲望と情念のざわめきもありません。第ニ層の知性と思惟の波立ちもありません。ひっそりした沈黙と静謐の世界です。

 スーフィズムは魂の深みについて語ります。つまり意識の深層を認めます。表層から深層まで五つの層、五つの段階を立てます。

 その第三層がナフス・ムトマインナであり、感性、知性の動揺がすっかりおさまり、心が浄化されて、この世のものならぬ静けさのうちに安らいだ状態です。

 観想的に集中し、完全な静謐の状態に入った意識、これを特に“カルブ”といいます。
カルブには変貌、変質の意味があり、この段階で魂が本質的に変質してしまうのです。
スーフィは必ずここを通って意識の神的秩序の中へと入って行くのです。

井筒俊彦「イスラーム哲学の原像」p58 全集第5巻p448

 
 
 

ムハンマドの天界飛行

2022-07-13 21:14:00 | イスラム/スーフィズム
以下の細密画は、16世紀のトルコの画家たちの手になる「マホメットの天界飛行」と題された作品である。マホメットの生涯を表したこの宗教画には、虚実とりまぜた天界飛行の様子が描かれている。厚き信仰の人マホメットは、七つの天を順に巡り、比類なきほどの至上の恩恵を得たのち、神の面前に立つのである。(以下マホメットはムハンマドに表記)

ムハンマドの天界飛行

   
 ある晩、ムハンマドのもとに天使があらわれた。天使ガブリエルはムハンマドを眠りからさますと、頸をちょうどよい大きさに裂き、中から心臓をとりだして洗った。再びムハンマドのからだのなかに心臓がもどされたとき、ムハンマドの魂は信仰と知恵に満たされていた。浄らかな心をもったムハンマドは空想上の動物、天馬(ブラーク)にまたがった。天馬は女の顔をしており、やっと目が捉えるほどの距離をただの一跳びでかけることができた。


 
 初めに二人が出会ったのは白いニワトリであった。ニワトリは頭でアッラーの王座をささえ、足を地につけていた。よってイスラムの土地には、人間の国に深く根を降ろさない宗教など存在しないのである。



 二人はゆっくりと進んだ。二人を待ち受けるのは永遠なる神に選ばれた者たちだった。そしてムハンマドと天使ガブリエルは、ダビデとソロモンに出会った。


 
 次に二人はモーセに礼を捧げた。彼らはすべての族長と預言者に礼をつくして、天上のモスクに来てもらったのである。



 次に二人は、エメラルドの玉座にすわるアブラハムにまみえた。カーバ神殿の礎をきずいたのが、このアブラハムである。アブラハムはイスマイルの父であり、アラブ人の祖である。



 最後に天馬は7番目の天に二人をつれていき、ムハンマドとガブリエルは天使たちに迎えられた。



 7番目の天で二人は大きな建物に入るようにいわれた。その建物は神の世界にありながらも、通路はどこか人間界の通路のようにも思われた。



 アラビアで二人はエメラルドと真珠の木を見つけた。その木の下にはナイル川とユーフラテス川が流れていた。



 600枚の羽をもつ大天使ガブリエルは、かくしてムハンマドにアッラーのことばを伝えるという、みずからの使命を果たしたのである。



 砂漠をわたる隊商の、名もないメッカのラクダひきムハンマドは、ついにアッラーの前にひれふした...。



 ムハンマドは雲と光につつまれ、神の前にぬかづいた。くり返し神の前にひれふすことは虚しいことではないと、ついにムハンマドは悟った。



 天国についたムハンマドは、ラクダにのった天女(フーリ)に迎えられた。



 これこそ神は唯一であると説きつづけたムハンマドの忍耐強さへの報いであった。



 ムハンマドのことばに耳を貸さず、なおざりにした人は地獄の業火に永遠に苦しむことになる。



 これが信心深いイスラム教徒が代々語りついてきたムハンマドの伝説である。



 しかし、アッラーの預言者の伝説とは、それ以上にごくふつうの男の生涯でもあった。



 だが、「ふつうの男」の生涯によって、歴史は大きく変わったのである。

アンヌーマリ・デルカンブル著 創元社「マホメット」より