MailING!日月説法日誌

一生の宝物「法華経」の宝島の世界へあなたをエスコート
仏教経典の中の王様「法華経全28品」の完全解読に大チャレンジ!

国上山良寛さん研究始めました。

2012年09月12日 10時49分32秒 | まちづくり
私は幕末の有名な坊さんといわれる良寛さんが修行で過ごした地域で生まれ育ちました。
しかし、今まであまりにも良寛さんの名前は有名で知らない人はないくらいな人だと思っていたわりには自分自身は何も知らなかったことを不思議に思えてなりません。
今私が住んでいる家の近くに良寛資料館が出来たのは私が高校一年生になったばかりの頃でした。
実は私はその頃はまだ別な隣町に住んでいてその2年後くらいに今の所へ引っ越してきたのでした。
その当時のこの町はとても活気が無い何故か殺風景なだけの町でした。
この町は良寛さんが修行した国上山へは自転車で20分くらいで行ける所にあります。
そしてこの町は、江戸から続く三国街道の最終点の海の町、寺泊の一つ手前になる街道町であって分水町といいましたが、数年前の合併で燕市となりました。
なぜ分水町といったかといいますと、日本一長い川の信濃川が通っている地域であり、信濃川のたびたびの大氾濫で水害に脅かされていたため、
江戸時代から治水普請を地元の人間は長らく幕府に願い出ていたのですが、やっと明治時代になって大掛かりな分流工事がなされ、新たな新信濃川として支流を作った所の町なためにその頃から分水町という名前になったのでした。この河川工事は当時は東洋一の大工事といわれたそうです。この新信濃川は国上山の脇を通るように作られました。
この工事の請願は江戸時代中期から長らく行われてきたもので、良寛さんが国上山で修行されたのは江戸時代末期ですからほぼこの治水工事に対し、良寛さんは水害にあえぐ地元農民の苦しみと十分関わっていたはずです。
また、国上山のある国上村の隣の寺泊は古くからの港町でありますが、鎌倉時代に順徳天皇や日蓮聖人が佐渡ヶ島へ流された港だということは以外に知られていないようです。
日蓮聖人といえば法華経普及の第一人者としてあまりに有名ですが、良寛さんといえば実は何で有名なのだろうと考えても今まで解らなかったのです。
書の上手さでは有名ということですが実は実際に書を学び出したのは国上山に過ごしていた50歳くらいの時からだったという話です。
若く出家し曹洞宗の寺の師にもついたが、その後転々と放浪し何をして良いかわからないままに40歳くらいの時、故郷越後へ戻って来られたらしいです。
国上山の五合庵に住み、そこから少し登った所に真言宗の国上寺があり、現存の寺では越後最古といわれています。しかし、良寛さんはその国上寺には入らず孤高に過ごしていますが、過ごした五合庵は良寛が仮住する前は国上寺住職の隠寮だった庵だそうですから、あばら屋の庵といえど、そこに住まわされるだけの待遇は高かったのでしょう。
また、曹洞宗の僧であって良寛和尚といわれているわりに実は「和尚」という法位さえ貰っていない事実は曹洞宗の宗門から疎外されていたことによるからでしょうか。
そして、良寛さんは法華経をこよなく愛したらしく、法華経からお釈迦様のここが良い、ここが悪いを自由に表現できた人でもあったのです。
また、五合庵で20年位修行した後、晩年そのすぐ下にある乙子神社の宮守の空庵に過ごすことになりますが、そこでは偏澄という若い弟子と二人で過ごしていたということも初めて知りました。その偏澄はなんと鍛冶屋の息子であったというから、良寛さんへの謎は一層深まるのです。
これが世に言う良寛研究というものなのでしょう。
偏澄は、良寛さんが亡くなると共にまだ20代の若さで分水町地蔵堂の願王閣の主となります。願王閣とは平家滅亡の壇ノ浦の合戦の後、この地へ渡ってきた西行法師がもたらした地蔵様を祀った堂であり、そのいわれで地蔵堂という町が出来ました。
何故、鍛冶屋の息子が数年間、良寛さんに弟子入りしただけの若さで町の主要な歴史の主になれるのか、謎は深まるばかりです。

良寛さんは偉い

2012年08月18日 11時40分00秒 | まちづくり
良寛さんはどういう功績のあった人だろう。
乱世の幕末の世に日本中の坊さんの集大成をしたかのような大人物であることは何となく知っているが、何か特別な仏教のあり方や生き方を詳しく後世へ残した人でもなさそうだ。
平凡すぎる人、そして平凡だからこそ貴重な人物だったということが窺える。
どんなに有能になろうと平凡な個人の人間として過ごす、これを貫いた貴重な人生と言うべきか。
号は大愚、辞世の句は「散る桜 残る桜も 散る桜」
これは神風特攻隊の心情になぞらえた歌としても著名らしい。
良寛さんがよほどいさぎ良い割り切り肌の性格だったらしいことはまざまざ感じるが何と哀しい人生を物語る歌だろう。
良寛という名前は鎌倉時代の日蓮聖人に対する鎌倉第一の大敵だったとも知られる坊さんも漢字は違うが良観という名だった。
良寛さんと共に江戸幕府は衰退しだし、良寛さんの死後翌年に天保の大飢饉が起こり全国一斉に百姓一揆が相次ぐ中、一気に江戸末期を迎えた。
私のかつての古い先祖も良寛の過ごした国上山近辺の農村で暮らしていた。
しかし良寛さんと共に過ごしていたことは今ではほとんど伝わってはこない。
相当な庶民的であったと知られる良寛さんだが、その伝え話が今のこの地域の居住民には実感としては何も残っていない。
今残るのはただ住んでいたとされる五合庵の建物がひっそりたたずむのみである。いかにこのあたりのその時代の庶民層の生活観とは大きく食い違っていたかが窺える。
良寛さん自身は地域の大きな土木事業などにも積極的に着手したそうで、盛んに動き回ってもいる。そこには大層のんきに貧困に耐えて暮らしたという状況と大きく対比する二面性があるのだ。
坊さんらしからない実態も意外と記録されているのである。
良寛さんは大層恵まれた家柄の生まれでもあったということだが、そんな人があえて苦境な人生を生き抜いたというところに大きな論点が生ずる。
良寛さんへの莫大な評価はそんなところにあるに違いない。
書が達筆で大層優れた方だったことは間違いないのだろうが、無縁孤立な人生を選んだのは相当意味深いことであり、通常の人間にはあまり知られていない意味のようだ。
今一度、個人的にじっくり良寛さんの不思議を考えてみたい。
現代の人類にかけがえのない事実を残している、それを知ることが現代を最大に救うことにつながるのではないか、ふと思ったのだ。

お金が人間を変える

2012年06月23日 20時08分39秒 | まちづくり
人生カネではない・・・なんて良く考えていたものだ。
人生こそカネではないか。
良く考えてみればよい、カネそのものがおいしいか?カネを得るなんて苦労だ。
でもカネは楽しいコミュニティを作り出す。
カネを嫌いと言うことはカネを表面に出さない他人を嫌っているのだ。
カネは表面化させなければつまらない。
カネ以外を表面化させたってもっとつまらない。
カネは我を失う楽しいものだから、楽しい時すぐ金は出て行く。
相手を喜ばせたいのがカネだから、相手の気持ちをわかってこそカネだ。
難しいこと考えずに人間に共通している心理はカネなのだ。
だから心理って表面的に仲間を作るってことだろうけど、やっぱりカネも表面的なものだろうね。

モデルより本モノ

2012年02月28日 21時25分56秒 | まちづくり
私は日本海沿岸の田舎に生まれ、ここで住んでいます。
私たちの住んでいる地域も近頃は社会福祉介護のネットワークが進み、やっと社会福祉が作り出す地域に信頼感をもち始めてきました。
私たちの住んでいる地域は早くから社会福祉活動を最重要としていたようです。
その点は平成以降の全国的に本格的にスタートした介護福祉事業の足並みにも幸先良く進歩していけたのだと思います。
しかし、何かが違って見えるのは何故でしょう?
そもそも社会福祉事業というのはまだまだ日本では歴史が浅いのだと思います。
日本人は何か新しいことは特に好きなようですが、それを自ら行うとなるととても下手なんだと思います。
本来、新しいことに対しては全く何をしていいかわからないのが実情で、新しいことが好きというだけでわからないままに急ピッチに闇雲に進めてしまうのではないでしょうか。
これがいつもの日本の特徴的問題なのではないでしょうか。
決して手が早くて、せっかちなどの国民性ではないと思いますし、どちらかと言うと真新しいものにはどの国よりもだいぶ躊躇するほうではないかと思います。
こんな国民性は興味深く研究してみると思いがけない大発見をしてしまうようにも思うのですが、とにかく入念過ぎるほど慎重に考える国民だと思います。
あまり考えすぎて考える葦になってしまった、いわば物言わぬモデルさんが多いのではないでしょうか?
古代の邪馬台国の復活などがちょっとした話題になっている?と思うのですが、ひょっとして邪馬台国って、その後の日本の歴史を作り出す単なるモデルだったんではないでしょうか?
ただ形だけの要塞らしきを作っておけば、それをおそれて侵略を防げるという、神秘なモデルを作ったのだと思います。
日本の混乱の歴史は、最初のモデルから始まっていると思います。
モデルは何を意味したか?またどんな神秘性を持っていたか?・・・それはそのモデルにしかわからないというのが日本の仕組みではないでしょうか。
基本的にモデルが一番頭が良いのだと思いますが、物言えぬモデルに適切な社会権を与えることが出来たら、その人は本モノの日本を組み立てることが出来ると思います。

史上最強の苦しみ

2012年02月11日 21時46分24秒 | まちづくり
今日は、市で開催された自主防災シンポジウムへ行ってきました。
千葉から来られた講師の方と愛知と新潟市から来られた市民代表の方のお話はとても感動的でした。
それなのに、開催側の市のほうでは市長は都合でお休み、いつものことながら市長代理を行政部長が行うという政治と行政が逆なのだと思います。
300人ほど集まっていたと思いますが、私のような50代前の者はごく僅か、ほとんどは高齢の方ばかりでした。
自主防災はとにかく日頃から市民自らが心がけなければならないもので、人を頼っていてはダメだと講師の方も言ってられました。
されど、自主的な防災といえど、いくらなんでも老人の方だけが自分で災害対策するという所に無理と疑問があります。
若い者の意見を聞かず、大丈夫だと思う気持ちを老人自らが自覚して危険を知ろうということには意味があると思いますが、
自分の家や周囲の若い人がいつでも助けてくれるということが先ず大事でしょう。
それぞれが心がければそれで良いのか?という基本的な問題から一歩も前に進もうとしません。
私は災害被災度調査員として県の講習を受講して登録者となっています。
そして、災害時には市長の号令でいち早く被災地へ駆けつけるというものです。
しかし、そんな資格が登録されようと、今まで何も地域的に取り組む会議も何もない状態で居るだけです。
事前訓練も何もないままに、いざ災害発生時に急に集まれなんてことは先ずないでしょう。
何のために家族や地域があるのでしょう?
こんなことでは縄文時代の狩猟生活ようなもので、家の男が狩に行ったそのまま帰ってこないという、その後はどうなるでしょう?なんていう恐ろしい無責任な無知感覚を見せられているようなものです。
こんな無知な現代人ばかりをそのままに、災害をテーマに実際は人的被害を作り出しているようなものでしょう。
言葉次第でいかようにも責任から逃れ切れる、逃げ切るための人当たりや言葉遣いと言っても良いでしょう。
このような苦しみこそが人類史上で最強のものと私は思いました。
こんな苦しみこそ、人間ならでは作り出せるものでしょうが、こんなことでない本来の人間のままに感じる痛みや苦しみで死ぬ方がまだましという、過酷なまでな戦いをいつまで続けるつもりなのか、早く見切りをつけてもらいたいものです。