世界はキラキラおもちゃ箱・第3館

スピカが主な管理人です。時々留守にしているときは、ほかのものが管理します。コメントは月の裏側をご利用ください。

燕の子⑩

2019-07-05 04:47:45 | 夢幻詩語



気が付くと、千秋は洗濯籠を抱えたまま畳の上に倒れていた。夢とうつつの間で混乱しながら、千秋はよろよろと起き上がり、電話の方に行った。受話器を取ると、耳に刺さるような幼稚園の先生の声が飛び込んできた。

「おかあさん! 真夏ちゃんが!!」

はっと我に返ると、千秋は受話器を抱え込み、言った。
「真夏が? どうかしたんですか?」

それからのことは、わけがわからなかった。とにかく、真夏が事故にあって救急車で運ばれたということだけはわかった。

「うそ…、なぜ事故なんか……」
へなへなとそこに座り込みながら、千秋は言った。泣き叫ぶような声で、先生は答えた。
「砂場で遊んでいたら、フェンスの向こうから暴走車が突っ込んできたんです! みさこちゃんはかすり傷で済んだけど、でも真夏ちゃんが!!」

インターバル、インターバル、インターバル……、頭の中で、声にならない叫びがぐるぐると回っていた。千秋はとにかく電話を切り、マンションの外に飛び出して、幼稚園の方に走った。

返さなくちゃいけないんだよ、返さなくちゃいけないんだよ。あの子はおまえの子じゃないんだ……。

黒い人影の声が、頭の中によみがえった。いやだ、失いたくない。真夏はあたしの子なのよ。あたしが生んで、お乳をやって、あたしが育ててきたのよ。

米屋の曲がり角のところで、千秋は何かにつまずいて勢いよく転んだ。すりむいた手のひらをなめながら、涙があふれ出た。そのとき、また燕が視界を横切った。

真夏!!

飛び去っていく燕を、呼び戻すように、千秋は叫んだ。


(了)





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燕の子⑨

2019-07-04 05:07:18 | 夢幻詩語



千秋は見知らぬ街を、歩いていた。

ここはどこだろう。ずいぶんと暗いところだ。空を見ると、太陽らしきものが中天に見えるのに、まるで夕暮れのように薄暗い。

道の隅には生え群がった雑草のかたまりがあって、それがかすかに風にゆれていた。足取りは重いのに、体は妙に軽い。いや、まるで重さなどないかのように、ふらふら千秋は歩いていた。

「やあ、きたのかい」
いつの間にか千秋は、小さな薄暗い部屋の中にいた。そこには、黒い布を頭からすっぽりかぶったあの人がいた。
千秋は、ああ、と言った。思い出してはならないことを、思い出しつつある。

「来るような気がしてたよ」
黒い布をかぶった人は、ため息交じりに言った。その声にかぶさるように、千秋は言った。

「あたし、今度生まれるの」
「ああ、知ってるよ」
「それで、やってほしいことがあるの」
「やっぱりね」

インターバル、インターバル、インターバル、という絹子の声が、耳の中で繰り返し鳴った。そうだ、わかる。これはインターバルの記憶なんだ。生まれる前の、あの世にいたころの、あたしの記憶なんだ。

「あたしね、今度の人生で、いやな子を産まなきゃならないのよ」
「ああ知ってるよ。前世で子供に馬鹿なことをしたからだろう」
「ちょっと厳しくしつけただけよ。それがあんな変なやつになると思わなかったのよ」
黒い布をかぶった人は、深々とため息をついて、かぶりを振った。千秋はつづけた。

「だから、子供をほかの子供ととりかえてほしいの」
「そりゃ、できるけど、やったらいやなことになるぜ」
「わかってるわよ。でもあたし、子供で苦労なんてしたくない」
「復讐されるのが怖いんだろう」

千秋は黙った。目に少し涙がにじんだ。自分の言っていることは、明らかに違反なのだ。裏から操作をして、自分の人生をいい方向に導いてほしいという願いなのだ。

「もちろん、ただじゃないわよ、それなりのことはするわ」
「まあいいけどね、でもうまくいくとは限らないぜ」
「いい子が欲しいの。すごくいい子が欲しいの。だからとりかえて」
「ほんとの子の方が、どんなあほでもいいっていうぜ」
「いやなものは、いやなのよ!」

もういい、やめて、と自分の中で自分が言った。千秋は思い出したのだ。生まれる前の約束。確かに自分は、誰かにこんなことを頼んだ。

本当は、自分は子供で苦労するはずだったのだ。前世で子供を虐げたからだ。子供は病気で生まれて、一生その世話をしなければならないはずだった。それがいやだったから、裏から操作して、子供を違う子供ととりかえてくれと、誰かに頼んでから、千秋はこの世に生まれてきたのだ。

そんなことが、すらすらとわかった。

「思い出したかい」
ふと、風景が変わり、まわりが真っ暗になった。あの声は言った。
「あの時約束したけどね、もうそれがだめになったのさ。もうあの子は、返さなくちゃいけないんだよ」
「それ、どういうこと!?」
千秋は叫ぶように言った。すると声の主は一瞬ためらった後、静かに言った。

「…業なんだよ、おまえの。どうしても、子供でつらい思いをしなきゃならないのさ」
「いや、いやよ!!」

そのとき、どこからか電話の音が鳴り響いた。





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燕の子⑧

2019-07-03 04:56:29 | 夢幻詩語



その日も、千秋は夫と真夏を明るく送り出した。暦はもう七月に入っていた。もうすぐ真夏の誕生日だ。

ピンクのバラがついたケーキを頼んでおかなくてはならない。それよりなにより、誕生日のプレゼントを何にするべきか。千秋は家事をてきぱきと片付けながら考えた。ピンクのワンピースはどうだろう。真夏はピンクが好きだ。でも、デザインに結構うるさいから、千秋が買ったものに文句をつけるかもしれない。ぬいぐるみか何かのほうがいいかしら?

千秋は洗濯籠を持ってベランダに出た。燕が飛んでいる。あの燕の子はもう巣立っただろうか。あたしも燕のように、真夏の世話をして、育てるんだ。千秋は幸せそうに笑いながら、真夏の小さなTシャツや靴下を干した。なんでもしてやりたい。娘のために、なんでもしてやりたい。こんなに子供を愛することが幸せだなんて、真夏が生まれるまで知らなかった。

きっとすごくかわいい娘になる。千秋は真夏の将来を想像して、ひとり微笑んだ。今は元気に飛び回っている真夏も、年頃になればおとなしくなってくるに違いない。どんな娘になるだろう。お嫁に行く時には、夫がどんな顔をするかしら。

千秋の想像の中では、美しく成長した真夏が明るく笑っていた。ふと、あんないい子には魔がつきやすい、などという絹子の言葉が浮かんできた。

洗濯物を干し終わって、中に入ると、千秋はぶんぶんと顔を振って、暗い考えを振り払った。ばかばかしい。絹子はSの影響で妙に迷信深くなっているのだ。霊感なんて、きっと詐欺みたいなものよ。みんなだまされているのよ。

「そうでもないさ」

そのとき、また後ろから声がした。千秋は心臓をぎゅっとつかまれるように、驚いた。だが振り返らなかった。振り返れば、またあの人影を見る。

「いろんなやつがいるがね、馬鹿にしたらまずいやつもときどきいるんだよ」

千秋は答えなかった。洗濯籠を握りしめながら、凍り付いたようにそこで固まった。

「もうそろそろおしまいなんだ。それを教えにきたんだよ、俺は」
「おしまいって何?」
千秋は思わず言った。すると声はひくひくと笑いながら、答えた。
「あの子はね、おまえの子じゃないんだ。だからもう、返さなきゃならないんだよ」

頭に血が上った。千秋は妙な叫び声をあげながら、振り返った。それと同時に、何かに吸い込まれるように意識を失った。





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燕の子⑦

2019-07-02 04:46:50 | 夢幻詩語



翌々日は日曜日だった。千秋は真夏を夫にまかせ、絹子について、講演会に行った。

Sというのは、この地方で活動している、けっこう有名な霊感師だった。絹子は車の中で、Sについていろいろと説明した。もとはある神社の禰宜だったそうで、ある日神からの霊感を受けて、霊能者としての力が開け、不思議なことがわかるようになったという。

千秋は心の中で眉に唾をしながら聞いていたが、心の半分では何かを期待していた。夢のことなんか、相談してみようかしら。でもきっとお金がかかるわ。変な宗教にひっかかったらいやだし……

運転をしながら、インターバル、という言葉が、千秋の胸の中である種の痛みを伴って、繰り返されていた。

会場は大学の講義室のようなところだった。結構盛況で、座る席に困るほどだった。一番前の席しか空いてなかったので、千秋と絹子はそこに座った。

「やっぱり人気があるのねえ、こんなのだとは思わなかったわ」
絹子のそわそわした声に、千秋は少し苛立たし気に答えた。
「どんなだと思ってたの?」
「もっと、古そうなところでやると思ってたのよ。お寺のお堂みたいなところで。前に相談したときはそんなとこだったし。でも今度はずいぶんと近代的ねえ」

話しているうちに、壇上にSが現れた。

千秋は、ぼんやりとSを見た。Sは五十がらみの男で、こざっぱりとしたスーツを着ていた。

講演の内容は、ほとんど右から左へと聞き流した。時々、インターバル、という言葉が耳をついたが、それにもあまり深入りしないようにした。ちょっとでも興味を持てば、魂を吸い込まれるような気がしたのだ。何かを期待してここに来たんだけれど、やはりいやらしい宗教家の洗脳など受けたくない。隣の席を見ると、絹子が熱心に耳を傾けている。千秋は小さくため息をついた。

霊感師というより、まるで実業家みたい、みんなだまされてるんじゃないかしら、と思いながら千秋は壇上のSを見上げた。そのとき、千秋はSとふと目があった。千秋はすぐに目をそらしたが、Sのほうは、何かに気が付いたように、千秋に声をかけた。

「やあ、これは、そこの奥さん」
え?という顔をしながら、千秋はふたたびSを見た。Sは少し苦しそうに眉を寄せて、言った。
「奥さん、お子さんがおありですね」
「は、はい、おりますが」
千秋はどきりとした。霊感師に意味ありげに呼び止められるなんて、あまり気持ちのいいことではない。

Sはしばし、千秋を見つめて、何かに悩むような表情をした。そしてしばらく沈黙したあと、言った。
「お子さんに気をつけてあげなさい」

千秋は目をぱちくりした。Sはすぐに目をそらし、元の話に戻った。となりで絹子が、茫然と千秋の顔に見入っていた。

「あんた、ちょっとまずいかもよ」
帰りの車の中で、絹子が千秋に言った。
「まずいって何?」
「何か見たんじゃないかしら。あんな人に相談するのにはね、それなりのものがかかるのよ。でも今日は、向こうから言ってくれたわ。たぶん、あんたに何かあるのよ」
「何かって?」
「とにかく、真夏ちゃんに注意してあげなくちゃ。あんないい子には、魔がつきやすいっていうしね」
「魔がつきやすいって……!」
「信じられないくらい明るい良い子よね。あんたが生んだのとは思えないくらい」
わたしだって時々そう思うわよ、という言葉を千秋は飲み込んだ。夢であの人影が言ったことを、思い出した。

あの子は、おまえの子じゃないんだよ……

そんなことあるもんか。真夏はあたしの子よ。あたしがちゃんとこのおなかをいためて、生んだのよ。

千秋は真夏を生んだ日のことを思った。あれは日差しのじりじり暑い夏の日だった。大きなおなかを抱えて、近所のスーパーに買い物に行く途中、突然陣痛が来て、産院にかけこんだ。それから二日ほども苦しんで、千秋は真夏を生んだのだ。

そうだ。どう考えても真夏はあたしの子よ。

しかし、夢の中のあの声は、ある種の現実感を伴って、千秋にからみついてくる。千秋はあのときSにもっと踏み込んで尋ねてみればよかったと、いまさらながらに後悔した。





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燕の子⑥

2019-07-01 04:39:54 | 夢幻詩語



夫と真夏を送り出し、台所で食器を洗いながら、千秋はかすかな偏頭痛を耐えていた。調子が悪いのは、雨のせいだろうか。いや、夢のせいだ、きっと。

洗濯物を部屋干ししながら、千秋は部屋の隅を見た。確か黒い影はあそこにいた。

千秋はブルっと身震いをした。夢のことを思い出すと、今もあの人影がそこにいるような気がした。

「気のせいだ。気のせいよ」千秋は自分に言い聞かせながら、無理に心を明るくしようと、テレビをつけた。お昼前のヴァラエティが賑やかにあらわれた。

ぼんやりとテレビを見ているうちに、気分は少し晴れてきた。外の雨もいくぶん小やみになってきた。そろそろ真夏を迎えにいかねばならない。千秋は立ち上がった。そのとき、耳に錐が入ってくるように、確かに、あの声が聞こえた。

「おまえ、あの子、おまえの子だと思ってるのか」

振り向くと、またあの人影が、部屋の隅にいた。千秋はすうっと息を吸い込んだ。悲鳴をあげようとしたが、無理にそれをとめた。ここは冷静になるのだ。これは夢だ。また夢を見ている。たぶん、テレビを見ているうちに、また眠ってしまったのだ。

そんなことを考えながら、千秋はくぐもった声で言った。

「あんただれ? なんでいつも夢に出てくるの?」

すると人影はクックッと、しばらく笑いをひきずった。そして言った。
「あんた、俺と約束したんだよ。生まれる前に」

「生まれる前に?」
「そう、インターバル……」

千秋の頭の中で、絹子のことばがぐるぐるよみがえった。前世とこの人生の間に、あの世でいる期間のことを、インターバルっていうのよ……

「思い出せよ。おまえ、生まれる前に、俺んとこに来ただろう。それで、頼んでいっただろう……」
「知らないわよ、そんなこと!」
「知らないはずはないさ。今は覚えていないだけだ。おまえはね、俺んとこきて、頼んでいったのさ。子供をとりかえてくれって」
「何それ?」

聞いているうちに、千秋は胸がむかむかしてきた。頭の奥で、火花のようなものがばちばちと音を立てている。

「おまえの好きなあの子、あの子はね、ほんとはおまえの子じゃないんだよ。おれが、とりかえてやったのさ」
「うそ!!」

千秋は叫んだ。それで目を覚ました。

やはり、眠っていたのだ。テレビの向こうから、白けた笑いが聞こえた。千秋は起き上がると、例の部屋の隅を見た。雨の音が聞こえる。それが何かのささやき声のように聞こえて、千秋は耳を伏せた。

そのとき、また電話が鳴った。飛びつくように電話をとると、絹子の声が聞こえてきた。
「ああ、千秋? この前言った講演会のことだけど……」
千秋はしばらく答えられなかった。絹子は構わず、話をつづけた。講演会は明後日あるらしい。よければ車を出して載せていってくれないかという話だった。
千秋は少し迷ったうえで、いいわ、と言った。宗教みたいなことにはかかわりあいたくなかったが、夢のことが気になっていた。





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燕の子⑤

2019-06-30 04:42:33 | 夢幻詩語



それから数日後、千秋はまた例の夢を見た。

灰色の部屋の真ん中で、千秋が積み木を積んでいると、背後から声がする。

振り向くと、またあの黒い人影がいた。

また言うんだな、と千秋は思った。約束を守る、ってこと……。

だが、そのとき人影が言ったのは、別の言葉だった。

「インターバル……」

インターバル? 千秋が聞き返すと、突然黒い人影が絹子の顔になった。

「おまえはね、インターバルで、悪いことをしたんだよ……」

なんのことよ、それ、と聞き返すと、絹子の顔は消え、また元の黒い人影になった。

「約束だよ」

人影は言った。

「おまえは、俺と約束をした。でももうだめだ。どうしてもいやなことになる……」

目を覚ますと、雨の音が聞こえた。

しばらくの間、千秋は身動きができなかった。全身がしびれたように冷たくなっている。何かの病気だろうか? いやそれとも、変な夢にあてられたのだろうか。

千秋はとなりで寝ている真夏を見た。いつものように、とんでもない寝相で、腹を出して眠っている。千秋はゆっくりと身を起こすと、また真夏のパジャマをなおし、腹にふとんをかけてやった。

寝床からそっと出て立ち上がると、少しめまいがした。頭の中がもやもやしている。インターバル…インターバル…、夢で聞いた絹子の声が、頭の中で繰り返された。

ばかばかしい、あんなのでたらめよ。おかあさんに一度注意してやらなくちゃ。変な宗教にはまって、大変なことにならないように。

ふすまをそっとあけて、隣の部屋に入ると、外から聞こえる雨の音が一層強くなった。ああ、今日は外で遊べないって、真夏が残念がるだろうな。千秋がそう思いながら、窓によると、ふと、背筋を冷気が上った。

「インターバル・・・・・・」

聞こえないはずの、声が聞こえた。振り向いてはいけない、と思うのに、千秋は振り向いた。するとそこに、あの黒い人影がいた。

悲鳴をあげたような気がした。だがそれは夢だったようだ。目を開けると、千秋はまだ寝床の中にいた。二度寝してしまったのだ。

目覚ましを見ると、千秋は小さな声をあげ、あわてて寝床から起き上がった。





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燕の子④

2019-06-29 04:35:25 | 夢幻詩語


幼稚園は歩いて十五分ほどのところにある。真夏は、行きは夫の車に乗って送ってもらえるが、帰りは千秋と一緒に歩いて幼稚園から帰ることになっていた。街を歩きながら、千秋はどこかで燕の子が鳴き騒ぐのを聞いた。ふと目をあげると、曲がり角にある米屋の軒下に、小さな燕の巣がある。

親燕らしい鳥が、忙しそうに空をよこぎっていく。巣の中では、もうだいぶ大きくなったヒナが、巣から胸を乗り出しているのが見えた。そんな燕の様子が、自分の家庭のことも思わせて、千秋は知らず幸福な気分になった。ふくふくと太っている燕の子の胸が、真夏のまるいほっぺを思わせた。

米屋の角を曲がって、まっすぐにしばらく歩くと、幼稚園につく。幼稚園の門前までいくと、千秋は先生に呼び止められた。何でも、真夏が雲梯から落ちてころげて、ひざにけがをしたという。
「ほんの少しすりむいただけなんですが」
先生が心配そうに言うのをしり目に、真夏は元気に言った。
「さんだんとばし、やってみたの!」
「まあ、真夏ったら」
千秋は真夏のけがを確かめながら、あきれたように言った。きれいに絆創膏がはってあった。ちょっとすりむいただけだ。心配はない。

「でもできなかったの、さんだんめって遠いんだよ。どうしてもとどかないの」
「まだ無理よ。大きいみさこちゃんだって、できないんでしょ?」
「大きくなったらできる?」
「大きくなってからにしなさいね」
千秋は先生にお礼を言ってから、真夏をつれて家路についた。

「ねえねえ、大きくなったらできる?」
家に帰る途中、真夏は何度も聞いた。
「できるようになるわよ。でも大きくなるには、ちゃんとご飯を食べないとね」
「ごはん食べる! みさこちゃんてね、足も真夏より大きいんだよ」
「真夏はみさこちゃんが好きね」
「うん、好き!」

真夏はまぶしいくらい素直な笑顔で言った。千秋はこういう真夏の明るさが好きだった。時々、自分の子とは思えないとさえ思った。千秋の子供の頃は、どちらかと言えば陰気で暗い子供だった。いじめなんかはなかったが、隅っこで本ばかり読んでいる、目立たない子供だった。そんな自分に、どうして真夏のような明るい活発な子ができたんだろう?

雲梯から落ちてけがをするなんてことも、真夏の美しさがあふれ出ているような気がして、かえって千秋はうれしく思った。自分から生まれた、美しい子供。千秋の子供。真夏。真夏に生まれた真夏。千秋は真夏の手を引きながら、言った。

「もうすぐ真夏の誕生日ねエ」
「うん、真夏、七月に生まれたんだよね」
「ケーキ買ってお祝いしようね」
「うん、ピンクのバラがついたやつにしてね!」

真夏は元気に言った。ふと、千秋の目の前を、燕が横切った。千秋は微笑んだ。また燕の子が騒ぐ声が聞こえる。千秋は米屋の軒を指さしながら、真夏に教えた。

「ほら真夏、つばめよ」
「どこ?」
「あそこ」
「ほんとだ! いる!」
「かわいいわねえ」

真夏はうれしそうに燕の子の数を数え、よんひきもいる!と歌うように言った。なんてかわいい子なんだろう。千秋は胸に情愛が満ちてきて、かきむしるように真夏を抱きしめたいと思った。でも、できずに、ただいっしょに燕の子を見上げていた。燕の子は幸せそうに巣の中で身をよせあっている。

親燕も幸せだろう。あんなにかわいい子供がいて。ふたりはまた歩き出した。千秋は真夏の手をにぎりしめながら、幸せでたまらなかった。

きっと、ずっとこんな日が続いていくに違いない。家への明るい道を歩きながら、千秋はそう思っていた。





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燕の子③

2019-06-28 04:41:25 | 夢幻詩語



電話が鳴ったのは、千秋が部屋に掃除機をかけ終わり、朝の家事のルーチンをほぼ終えたころのことだった。

「はい、高下です」
「ああ、千秋?」
電話に出ると、聞き覚えのある甲高い声が聞こえた。千秋は、まずいな、と思った。声の主は実家の母の絹子だった。

「そろそろ休み時間だと思ってかけたの。あんたはだいたい時間通りにものごとをやるたちだからね」
絹子は言った。千秋は別にそれに反論はしなかった。千秋には、何かにつけ決まりをつくってそれを律義に守っていくような性質があった。
「まあね、一休みしようと思ってたところだけど……なんか用? おかあさん」

「いやね、こんどSの講演会に行くんだけど、あんたもいっしょに行ってくれないかと思って」

またか、と千秋は思った。Sというのは、今絹子が凝っている霊能者の名前なのだ。
「おかあさんてば、変な宗教にはまってるんじゃないの?」
千秋がいうと、絹子はちがうちがう、と否定した。
「別にそんなんじゃないわよ。勧誘みたいなことしてるわけじゃないから。たださ、なんとなく、あんたのことが心配だからよ」
「何よ、心配って」
「ほら、子供のころから変な夢ばかり見るっていうじゃない」
ああ、それか、と千秋は舌を打った。例の黒い人影の夢のことは、何度か母に相談したことがあったのだ。

「昔から神経質な子だったからね、心配してるんだよ。霊的に問題があるんじゃないかって」
「霊的って」
「もしかしたら前世に問題あるんじゃないかって、Sに相談してみたのよ」
「おかあさんたら、そんなこと勝手に……」
「そうしたらね、あんたの前世を教えてくれたの」
「あたしの前世って何よ」
半ば興味を持ちながら、千秋は聞いてみた。すると絹子は当たり前のことのように、言った。
「あんたは前世、ドイツあたりで商人の娘だったって話よ」
とたんに千秋は、話を聞く気力を失った。うんうんといい加減に返事をしながら、絹子が話すのを耳元で聞き流していた。

「それでね、インターバルのときに……」
「インターバル?」
「インターバルっていうのは、前世とこの人生の間に、霊界にいる時のことよ。人間、死んでる間は、あの世にいるからね、そのときに……」
「ああ、もうこんな時間よ、おかあさん、あたしそろそろ買い物に行かないと」
「ああ、そうね。でもね、あなたにはインターバルに問題があって、なんとかしなきゃいけないそうなのよ。それをほっておくと、嫌なことが起こるかもしれないって、Sが……」
「あまり本気にしないほうがいいわよ、おかあさん、そんなこと言って、変なお札とか買ったんじゃないでしょうね」
「あらやだ、ちがうわよ。Sはそんなことしないのよ。ただ……」
「またね、おかあさん」
このままではまた話が長くなると思い、千秋は半ば強引に電話を切った。

買い物を終え、簡単な昼食をとると、もう真夏を幼稚園に迎えにいく時刻になった。千秋は上着をひっかけて、いそいそとマンションの玄関を出た。外に出て見上げると、空は初夏の光に満ちていた。





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燕の子②

2019-06-27 04:39:49 | 夢幻詩語


「おはよう、ママ!」と真夏は大きな声で言う。千秋は笑いながら、「おはよう、真夏」と答える。夫は挨拶もせずに、さっそくテーブルについて、朝ご飯のみそ汁をすする。

「今日は幼稚園で、みさこちゃんと遊ぶんだ」と真夏もテーブルにつきながら言った。千秋は、へえ、そう、と言いながら、真夏の小さなお茶碗にご飯をついだ。真夏はうれしそうにご飯をぱくついた。

「みさこちゃん、うんていが上手なんだよ、二段とばし、できるんだよ」
真夏はおしゃべりだ。こっちが何も聞かないのに、ひとりでしゃべっている。夫も千秋もどちらかといえば物静かな方なので、家の中では、真夏だけがにぎやかにしゃべっているという感じだった。

「ほら、ごはんつぶ落としてるわよ」
千秋が注意すると、真夏はこぼしたご飯粒をつまんで口に運びながら、おもしろそうに笑って言った。
「みさこちゃんとうんていで遊ぶんだ。でもうんていやってると、いつもしゅん君が邪魔しにくるんだよ。それでけんかするの」
五歳児とは思えないようなしゃべり方で、真夏はしゅん君とみさこちゃんのけんかを説明し始めた。千秋は困ったように笑いながら、先に食べてから話しなさい、と言った。

食事が終わり、洗顔と歯磨きを終えると、真夏はタンスの前に行って、自分で服を引きずり出し、それを着始めた。何でも自分でやるのが好きな子なのだ。しかし勝手にやらせておくと、いつも自分の好きな服ばかり着るので、千秋が口を出す。

「そっちの緑のにしなさい。そのピンクのはもう暑いでしょ。半袖がいいわ」
「でも、みさこちゃんもピンク着るんだよ」
「みさこちゃんは関係ないでしょ。ほら、袖にフリルがついててかわいいわよ」
真夏は不満そうだったが、結局は千秋のいうことを聞いた。あまり強情は張らない子なのだ。きりのいいところで、親の言うことを素直に聞いてくれる。そこがまたかわいかった。フリル付きのモスグリーンのワンピースを着て、カバンをかけ、帽子をかぶると、真夏は嬉しそうに玄関に走っていった。

「みさこちゃんと遊ぶんだ!」真夏は玄関で足踏みしながら、父を待っていた。

真夏を幼稚園まで送っていくのは、夫の役目だった。
「いってきまーす、ママ!」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
千秋は夫と真夏を送り出すと、ふうとため息をつき、台所に行ってテーブルを片付け始めた。





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燕の子①

2019-06-26 04:25:54 | 夢幻詩語



そこは、狭い灰色の部屋の中だった。

千秋は、畳の上に座って、赤い積み木を積んでいた。もう二十八にもなるのに、なんでこんなことをしているんだろう、と考えていると、ふと背後から呼ぶ声がして、千秋は振り向いた。見ると部屋の隅に、黒い布を頭からすっぽりとかぶった人間がいる。

千秋は肝のあたりをひやりと何かに触られるような気がした。しかし、怖い、という感じはしなかった。なんとなく、その人間を知っているような気がするからだ。

「約束は守るよ」

その黒い人影は不思議な声で言った。千秋は何のことやらわからないまま、だまってうなずいた。すると急に、下腹がきゅっと痛くなった。

いやだよ、と言おうとして、目が覚めた。

白いものが見える、と思ったら、それは小さな子供の足だった。千秋は寝床から半身を起こし、となりのふとんで寝ている娘の真夏の寝相を見た。五歳の真夏は、頭と足を反対にし、枕の上に膝を載せて眠っていた。ピンクのパジャマを胸までたくしあげ、おなかがまるだしになっている。やれやれ、とため息をつきつつ、半ば嬉しそうに、千秋はそっと真夏のパジャマを直し、ふとんをかけてやった。

そしてしばしの間、かわいい真夏の寝顔に見とれたあと、夫と娘を起こさないように寝床から出て、千秋は朝の支度に入った。

着替えようとタンスから黒いTシャツを出した時、ふと夢のことがよみがえった。部屋の隅にいる黒い人影。千秋は子供のころからよくそういう夢を見た。なんだか懐かしいような不思議な声で、その人影はいつも言うのだ。

約束は守るよ。

いや、約束を守るんだよ、だったかな。とにかくそういう感じのことを、人影は千秋に言うのだ。思い返すと、何やらいつも下腹がしめつけられるような不安を感じる。約束? 約束とはなんだろう? 

考えようとするが、思考が壁に阻まれたようにその先に進まない。千秋は考えるのをやめて、Tシャツを頭からかぶった。ジーパンも黒いのをはいた。千秋は黒が好きなのだ。地味で、目立たないようなものが好きだ。そんなことが、夢に影響しているのかもしれないと思った。

朝食の支度が終わるころ、真夏と夫が寝室から起きだしてきた。





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