小さな神さまがしばし口ごもっておられますと、女神はそっと両のたなごころをあわせて、優美な椀をこしらえ、傍らの湖にそれを浸しました。見るとその椀の中には、赤や青や黄や、中には灰色や黒のものまで、色とりどりの核が盛られてありました。女神がお手を小さく揺すられますと、その中の核も、しゃらしゃらと心地よい音をたてて揺れました。
やがて核は、湖の水に洗われて、まるで燃え始めた石炭の粒のように、それぞれに内部から光り始めました。女神の手から、虹が小さな魚のように次々とあふれ出ました。女神はその様子を笑顔でごらんになると、傍らの手箱の中に、その核をさらさらと注がれました。よく見るとそれは手箱ではなく、小さな朱塗りの社でありましたが。
「あなたのつかさどっておられる谷は、どんなところでございましょう」
女神はもう一度手で椀をこしらえながら、おっしゃいました。すると小さな神さまは、思い出したかのように、懐から小さな巻物を取り出されました。
「ここに地図を持ってまいりました」
小さな神さまはおっしゃると、その巻物をぱらりと広げられました。すると巻物の中から、突然青々とした山が高く盛り上がりました。そして見る間にせせらぎがきらきらと光りだし、愛らしい野花が緑の中に点々と灯りだし、あちこちで若鹿がひょいと顔を出し、鳥がぴりぴりとさえずりだしました。季節の色は次々と変わり、そのたびに森は、薄紅の花がほわほわとふくらんだり、緑が光るように深みを増したり、紅葉が梢を赤らめたり、寒さに細る枝に白い雪を載せたりしました。奥に目をやれば、もちろんのこと、澄んだ空気を閉じ込めた珠玉のように、白い滝がひっそりと歌っている姿が見えました。
女神はその様子をしばしごらんになった後、にっこりとほほ笑みながら、おっしゃいました。
「丹精しておられますね。これならば、十分ににんげんを育てられましょう」
しかし小さな神さまは、恥じ入るように、あわてて地図を巻き戻しました。
「どうされましたか」
にんかなの女神が尋ねられても、小さな神さまはしばし答えることができませんでした。沈黙が痛く胸にこすりつけられました。やがて小さな神さまは、声をしぼり出すようにおっしゃいました。
「この身が、恥ずかしいのです。わたしは、確かに、この谷を愛し、慈しんできた。しかし、あのように、……我が身を割り砕くまでに、何かを愛したことは、一度もなかったのです」
にんかなの女神は、澄んだ深い湖のような瞳を、遠い地平を見はるかすように細められて、小さな神さまを見つめられました。そしてほほ笑まれ、静かなお声でおっしゃいました。
「愛は時に、愉悦とはよほど離れた苦をもたらすものです」
「はい。この身に染み入ってございます」
「では、もうにんげんをお育てにはならないのですね」
小さな神さまは、再び沈黙されました。胸の珠の中で、美羽嵐志彦が息をひそめて聞いている気配が、重く感じられました。
今、小さな神さまのお胸の辺りでは、ある一つの言葉が、月満ちて今しも生まれようと、もがいていました。小さな神さまは、その言葉を生もうか、どうしようかと、悩んでおられました。生まずに、飲みこみ、混沌へと投げこむこともできました。
小さな神さまは、ご自分の中へ問いを発しました。どうすればいいかと。しかし、答えはありませんでした。元より、小さな神さまにはもう分かっていました。言葉は生んでみなければ分からぬことを。そしてもはや、後もどりはできぬことも。
小さな神さまは、お口を開きました。待っていたかのように、言葉は生まれました。小さな神さまは、こうおっしゃいました。
「……そだてて、みたい……」
小さな神さまは、不意に脱力感に襲われました。今し方生まれた言葉が、嬰児のように泣きながら小さな神さまのお胸に宿りました。切ない潮の高まりが、いずことも知れぬ奥底からいっぺんにわきあがり、小さな神さまのお心を、しばし船のようにもてあそびました。小さな神さまはお顔をおおいました。嗚咽が生まれました。
にんかなの女神はかぎりなくやさしく笑いました。そして、おっしゃいました。
「よろしい。少しの間、お待ちください」
女神は、再び椀をこしらえ、その中の核を湖の水でゆすぎました。虹が魚のように躍り出ました。女神は、その核を、手箱に流しこむ前に、そっと小さな神さまの前に差し出され、おっしゃいました。
「この中からお選びになるとよいでしょう」
小さな神さまがのぞきこんでみますと、中の核たちは、ちらちらと光りながら、何やらもぞもぞ動いたり、こここそとささやきあったりしています。おやおや、中にはキノコのように伸び上がるものや、くるくるとせわしなさそうに走るものもいます。鈴のようにきれいな声で歌おうと、懸命に声をはりあげていたりするものもいます。ふと見ると、チコネによく似た薄金色の核が、隅に静かにたたずんで、もの問いたげに小さな神さまを見上げていたりもしています。
小さな神さまは、静かにそれらをごらんになっていました。小さな神さまのお心は、次第に、湖のように平らかになってゆきました。小さな神さまは、そっと、おっしゃいました。
「この中に、わたしの許に来たいものは、いるか?」
すると、核たちは、ぱっと明るく輝きました。小さな神さまはほほ笑まれました。再び、情愛がふくふくと生まれてきました。涙があふれ、それらは星のように輝いて、ぽたぽたと女神のたなごころに落ちました。
「そうか。ではおいで。わたしは、おまえたちのために、できることなら、なんでもしてやろう」
小さな神さまは静かにおっしゃいました。するといくつかの核が、狂喜したようにぱちぱちと暴れまわりました。やがて核たちは、淡い虹色の光を、ふかふかと放ち始めたかと思うと、小さな声を合わせて歌い始めました。小さな神さまはその歌を受け取り、ゆっくりとうなずかれました。
女神は、ふうふうと、なだめるように核たちに息をふきかけました。すると核たちは、眠りこむように、静かにたなごころの底に沈みました。そして女神は、核たちをかたわらの社の中へと、さらさらと流しこみました。
「これで準備は終わりました」
女神はおっしゃいました。小さな神さまは、深々とお辞儀をなされ、女神に感謝の心を捧げられました。
「にんげんは、いつ、わたしの谷へやってくるでしょう?」
「二百年ほど、かかりましょう」
「二百年ですか」
いつしか、小さな神さまのお手の中には、二百年の時間が、美しい銀砂の山となって、盛られていました。
(つづく)