玉ねぎを一枚ずつ剥くように、アーサナごとに自分の核へと近づいていく感覚を最近覚えた。
日々の暮らしの中で生まれる考え事、悩み、ストレス、不安や寂しさのみならず、余剰した喜びすらもひとつひとつ剥がし取って、ただ呼吸をするだけの存在になっていく。
なぜだろう、「嬉しい」という感情までも取り除いていくのにそれすらも清々しい。もしかすると、前向きな感情もこねくり回して手垢だらけにするよりは、一旦差し出して汚れを落としていく方が健全なのかもしれない。
考える前に身体が動いて、思考も段々に薄れ、半ば取り憑かれたように呼吸にばかり意識が向いている真っさらな状態が去来すると、額や身体から流れ落ちるたくさんの汗の滴のせいなのか、その状態がただひたすら気持ちいいものになる。
そういう練習ができている時は、苦手なアーサナはともかく、日常の世界ではあれもこれもできるような気がしてくる。
心のベクトルがしっかりと前を向き、「できない」という思考から解放される。
俗にいう「根拠のない自信」のようなものに満たされていく。
その瞬間は自分本来の姿が現れたような気もするし、一方でそれは考えすぎだよなという気もする。
それでも、自分が自分で満たされているようなその状態というのは、確実に自信につながっていると思う。
私は私でいい。他の誰かになろうとするのではなく、最高の自分になればいい。
そんなことを40代も半ばを折り返したいい大人が声高に言うのもおかしいだろうが、長いようで短い人生、自分自身を生きたという実感は持ちたいなぁと思う今日この頃である。
Nozomi
日々の暮らしの中で生まれる考え事、悩み、ストレス、不安や寂しさのみならず、余剰した喜びすらもひとつひとつ剥がし取って、ただ呼吸をするだけの存在になっていく。
なぜだろう、「嬉しい」という感情までも取り除いていくのにそれすらも清々しい。もしかすると、前向きな感情もこねくり回して手垢だらけにするよりは、一旦差し出して汚れを落としていく方が健全なのかもしれない。
考える前に身体が動いて、思考も段々に薄れ、半ば取り憑かれたように呼吸にばかり意識が向いている真っさらな状態が去来すると、額や身体から流れ落ちるたくさんの汗の滴のせいなのか、その状態がただひたすら気持ちいいものになる。
そういう練習ができている時は、苦手なアーサナはともかく、日常の世界ではあれもこれもできるような気がしてくる。
心のベクトルがしっかりと前を向き、「できない」という思考から解放される。
俗にいう「根拠のない自信」のようなものに満たされていく。
その瞬間は自分本来の姿が現れたような気もするし、一方でそれは考えすぎだよなという気もする。
それでも、自分が自分で満たされているようなその状態というのは、確実に自信につながっていると思う。
私は私でいい。他の誰かになろうとするのではなく、最高の自分になればいい。
そんなことを40代も半ばを折り返したいい大人が声高に言うのもおかしいだろうが、長いようで短い人生、自分自身を生きたという実感は持ちたいなぁと思う今日この頃である。
Nozomi
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