今日はちょっと勇気を出して、デリケートな話題に触れてみることにしました。
新聞やニュースでご存知の方も多いかと思いますが、先週、イスラエル軍が人道支援船団を国際海域で襲撃するという事件がありました。言うまでもなく、イスラエル国内では瞬く間にそのニュースは広がり、連日連夜、テレビやラジオはその話題で持ち切りです。
この事件に関する人々の反応は賛否両論ですが、いずれにしても非常にセンセーショナルな事件として国民全体が捉えている様子がひしひしと伝わってきます。
島国日本で生まれ育った私が、政治的にも宗教的にも複雑な事情を抱える中東問題についてあれこれ意見するのはお門違いかもしれないのですが、やはりこの件に関しては色々と考えさせられる一週間でした。
しかしながら、結局いくら考えても、どちらが正しいのか未だに分からないでいます。
事件に関する情報は日本にいるよりも詳細かつ豊富に手に入ります。人々の憤りや落胆を肌で感じることもできます。ですが、それでもなお、平和な国で生きてきた私が真に理解するには、この地域の紛争問題はあまりにも根が深い。歴史的、政治的、宗教的要素に加え、感情的要素までもが複雑に絡み合い、世代を超えて綿々と受け継がれた対立の構図を、第三者が独自の尺度で測って善悪を決めることは非常に難しいということです。もちろん、尊い命が奪われるというのは、どんな理由であっても悲しいことだし、本来あってはならないことだという私の立場に変わりはありません。
ただ、そんな中で私が改めて感じることは、『正義』というものは各々の立場によって異なるのではないかということです。
私たちはどういうわけか善悪で物事を捉えたがる癖があります。しかも、限られた情報だけを手がかりに結論を急いでいることも少なくありません。本当はこの世の中には善悪や勝ち負けで価値を判断できないことがたくさんあるというのにもかかわらず…。
そして今回の事件。私の眼には双方ともが自分たちの大義名分を貫くために相手側の要求を突っぱねた末の悲しい結果のように映っています。
結果だけを見て、その過程や背景に目を向けずして、安易に白黒をつけるだけでは恒久的な解決には至らない。腕力で手に入れる平安には、絶えず悲しみと憎しみが付きまとっている。そのことに世界全体はとっくに気づいているはずです。そこをもう一歩踏み込んで、そろそろ別の道をたどり始めてもいいのではないかなと、中東の片隅でひっそりと考えています。
いかに自分のカラーを活かしながら、他者との調和を生み出せるのか。
私たちはまず日常の中で、そのことを模索し、行動する。難しいけれど、とにかくやってみる。それが「平和への小さくても大きな一歩」という理想を、理想のままで終わらせないように。
ナマステ&シャローム
Nozomi
新聞やニュースでご存知の方も多いかと思いますが、先週、イスラエル軍が人道支援船団を国際海域で襲撃するという事件がありました。言うまでもなく、イスラエル国内では瞬く間にそのニュースは広がり、連日連夜、テレビやラジオはその話題で持ち切りです。
この事件に関する人々の反応は賛否両論ですが、いずれにしても非常にセンセーショナルな事件として国民全体が捉えている様子がひしひしと伝わってきます。
島国日本で生まれ育った私が、政治的にも宗教的にも複雑な事情を抱える中東問題についてあれこれ意見するのはお門違いかもしれないのですが、やはりこの件に関しては色々と考えさせられる一週間でした。
しかしながら、結局いくら考えても、どちらが正しいのか未だに分からないでいます。
事件に関する情報は日本にいるよりも詳細かつ豊富に手に入ります。人々の憤りや落胆を肌で感じることもできます。ですが、それでもなお、平和な国で生きてきた私が真に理解するには、この地域の紛争問題はあまりにも根が深い。歴史的、政治的、宗教的要素に加え、感情的要素までもが複雑に絡み合い、世代を超えて綿々と受け継がれた対立の構図を、第三者が独自の尺度で測って善悪を決めることは非常に難しいということです。もちろん、尊い命が奪われるというのは、どんな理由であっても悲しいことだし、本来あってはならないことだという私の立場に変わりはありません。
ただ、そんな中で私が改めて感じることは、『正義』というものは各々の立場によって異なるのではないかということです。
私たちはどういうわけか善悪で物事を捉えたがる癖があります。しかも、限られた情報だけを手がかりに結論を急いでいることも少なくありません。本当はこの世の中には善悪や勝ち負けで価値を判断できないことがたくさんあるというのにもかかわらず…。
そして今回の事件。私の眼には双方ともが自分たちの大義名分を貫くために相手側の要求を突っぱねた末の悲しい結果のように映っています。
結果だけを見て、その過程や背景に目を向けずして、安易に白黒をつけるだけでは恒久的な解決には至らない。腕力で手に入れる平安には、絶えず悲しみと憎しみが付きまとっている。そのことに世界全体はとっくに気づいているはずです。そこをもう一歩踏み込んで、そろそろ別の道をたどり始めてもいいのではないかなと、中東の片隅でひっそりと考えています。
いかに自分のカラーを活かしながら、他者との調和を生み出せるのか。
私たちはまず日常の中で、そのことを模索し、行動する。難しいけれど、とにかくやってみる。それが「平和への小さくても大きな一歩」という理想を、理想のままで終わらせないように。
ナマステ&シャローム
Nozomi
いま息子とウルトラマンをよく見てるのだけど、
ウルトラマンAの最終回でAが「なんど裏切られようとも、信じることを疑わないでくれ どんな国の人とも」と地球の少年に訴える話がある。
まさしく そう。 そこで国が出てくるところに
時代を感じるし、それは普遍的にずっとある僕らの問題なんだよね。 POだった僕らが理想を
疑うわけにはいかないさ。
そして君の勇気にパンカーイ!(息子は乾杯をこういう そのまま成長させます。)
人間は一体いつから疑ったり裏切ったりしながら生きるようになったんだろうね。
今の世の中疑わしいものがたくさん溢れているから、無防備ではいられないのが悲しい現実だけれども、だからといって理想を放棄してはいけないんだって思う。
理想が理想ではなく、ごく身近なありふれた日常だった時代が確かにあったはず。
それを知っているからこそ理想を掲げられるわけで。
次の世代に胸を張ってバトンタッチできる世界にしたいよね、バンカーイって。
その問題を自分の事として考えることで
その問題は自分の問題になる。
そして答えは全然でないかもしれないけれども
ゼロではない、形にもならない何かは
その時浮かんでいるように思うから。
それも小さな一歩だと思うから
「少しはゼロに優るのです。」という一文が、私の尊敬するアシュタンガヨガの先生デヴィッド・スウェンソンが書いた本にあるんだけど、yokoちゃんの言う「考えてみる」という行為もきっとそういうことなんだろうね。
明確な答えがすぐに出なくても、問題に対して能動的に関わろうとする姿勢は間違いなく立派な一歩だね。
平和な世界になりますように。
第三者よりも渦中にいる当事者の国民たちの方が一歩を踏み出すことは大変ではないかと思いながらも、先に進むには変えていくには一歩ずつしかない、と。
第三者としてまずは勇気をもって伝えることと、一歩進むこと、自分に出来る何かを少しずつしていくこと。
大事にしたいと思いました。
みよこさんの言う通り、当事者が一歩を踏み出すのには大変な勇気と決断が必要かもしれませんね。
何度もチャレンジしながら、何度も裏切られた記憶を拭い去るのは並大抵のことではないけれど、一方で平和な暮らしを誰よりも切望しているのも彼らでしょうから、やはりそこで私たち第三者は傍観するでもなく、ジャッジするのでもなく、平和への道標を示していく役割があると思うんです。
口で言うほど簡単ではないから、まず自分にできることから。