Joy Yoga

中東イスラエルでの暮らしの中で、ヨガを通して出会う出来事あるいは想いなど。

日本人とアイデンティティ 河合隼雄著

2011-10-26 18:10:58 | 本の紹介
日本に一時帰国する度に私は数冊の本を購入することにしています。
イスラエルでは貴重な日本語の書籍ですから、ネタが尽きないように半年ほどかけてゆっくり読んでいます。最近は少々難解なヨガの経典なども併読しているので、さほど読書家ではない私にはちょうど良い分量です。
数日前から河合隼雄先生が生前に残されたうちの一冊『日本人とアイデンティティ』の文庫版を読んでいます。

アイデンティティという言葉の定義について河合先生は冒頭で、そもそもそれはアメリカの精神分析家の言い出した言葉であり、社会における「自我」の在り方がアメリカと日本では同じではないので、それをそのまま日本人に適応させることはできないのではないかと指摘した上で、「しかし、広い意味で、自分とは何かを問い、自分の生き方を考えてみるという意味で、『日本人とアイデンティティ』という題にした。」と仰ってます。

文中にある「自分とは何かを問い、自分の生き方を考えてみる」というフレーズ。
ここに私はグイッと引き込まれました。
 
ヨガの経典でもこのテーマを扱っているものは多く、むしろヨガを実践する上で決して度外視することのできないテーマなのですが、河合先生が専門とされていた心理療法の世界でもこの問いが根底に流れています。
どちらも「幸せの探求」に置き換えられるのではないかと私は解釈しています。


ところで、私のイスラエル生活も8月で丸3年が経過し、ようやくこちらでの生活にも慣れてきたよと言えるようになりました。
「石の上にも三年」とはよく言ったものです。
移住当初は「日本での自分」をこの国でも継続させようとしていたので、「イスラエルにはこれがない、あれもない」と不足感が止めどなく湧いてきたり、現地の強烈なメンタリティーに面食らったり、とにかくこれまでの自分では暮らしていけそうにないことに大いに悩んだものです。

まして、移住前にアートセラピーやヨガと出会い、「自分」という存在を探求し、ある程度「こういう生き方」というのを自分なりに確立しつつあった矢先の出来事だけに、余計に環境の変化を受け入れられなかったのだと思います。

相当な抵抗を覚えました。日本に引き返すことでしか自分らしく生きられないんじゃないかとも考えました。その一方で、子供たちに対しては「早く新しい環境に慣れるといいな」と願ってみたりと、矛盾だらけ。

どんなに抵抗をしたところで環境を変えることはできないので、やはりここは自分自身が変わらなくてはならないという結論に至ります。
とはいえ、イスラエルにいるからイスラエル人に同化すれば解決するのかというとそうでもない。
仮に私が現地の人々のように振る舞ったとしても、根本的に違う“何か”のために「それは私ではない」と分かってしまう。
この“何か”というのがこの本でいうところのアイデンティティなのかもしれません。


少し話は逸れますが、ヨガの世界では国籍や言語、宗教の違いまでも超越していく努力がごく自然に払われる傾向にあるのですが、私たちが実際に生活をしている社会というのは、誰もがヨガという共通言語を有しているのではないので一筋縄ではいかないわけです。
むしろ、ヨガというツールを用いてその多種多様な環境に自分をいかにフィットさせていくのか、ということが実際的な鍛錬になります。

そういったことを踏まえ、「アイデンティティとは何ぞや」ということを意識していくと、「郷に入りては郷に従え」という諺が単にその土地の人間に同化することを意味しているのではないのだな、ということが日々の試行錯誤の中で身を以て見えてきます。


そんな流れの延長で手にしたこの本は、たくさんの示唆に溢れていて大変読み応えがあります。
河合先生の著書は他にもいくつか読みましたが、取り扱いが難しい心の問題をご自身の豊富な知識と経験に基づいて、とても大らかな視点と親しみ易い語り口で解き明かしておられるので、私の場合ですが、読了感は「安心」のひと言に集約されます。


イスラエルで暮らしながら「日本人としての私らしさ」を模索する上で、個人的に心得ておきたい箇所がいくつかありましたので、それらをご紹介して終わりたいと思います。
(第一章「日本人の心の深み ― 生き方をめぐる問題」/「心理療法と人間の幸福」より抜粋)


[われわれ心理療法家は確かに一人の個人を相手としているのであるが、それはとりもなおさず、個人の心に存在する“世界”を相手にすることになり、単純な意味での個人だけを相手とする態度では律し切れない事象が多く生じてくるのである。個人を相手としていながら、われわれは個人の幸福のみを第一のこととすることができない。]


[神経症が治るということは、確かにその人にとって「幸福」なことに違いない。しかし、それは、最初にその人が治療を受けに来るときに想像していたような幸福とは異なるものであることを、治療の過程のなかで認識しなければならないことが多い。(中略)
 幸と不幸ということに、楽と苦という次元が単純に重なりあうと思っているところに、問題があると思われる。


[このような状態で心理療法の過程がすすんでゆくときは、そこでは、一般に考えられる幸福や不幸ということがあまり重い意味をもたないのである。ましてや、苦しみを逃れて楽な状態になることが幸福であるなどという考えも、入る余地がなくなってしまう。セラピストもクライエントも、幸・不幸という次元にかかわりなく流れる大きい流れのなかに、ともに身を投じるのである。
 それがいったい何なのか、ときには善か悪さえ定かではない。ただそのような行為のなかで、われわれは自分という存在がそれを超える何か偉大なものと結ばれているという実感を味わうのである。]


・・・うーん、ヨガですね。



ナマステ&シャローム
Nozomi

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2 コメント

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読んでみよー。 (mackey)
2011-10-30 23:05:57
私も河合先生の本は何冊か読んでいるけど、これはまだ未読。
最近この手のから離れていたので、読んでみようかな。

それにしても、3年かー!
思いは計り知れないけれど、ほんとうに尊敬する。
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☆ mackeyさん ☆ (Nozomi)
2011-10-31 15:36:01
どうもありがとう。
当初は2~3年で日本に帰るつもりでいたんだけどねぇ。

なかなかのボリュームのある本だけど、"河合節"のおかげでスイスイ読めちゃう。
セラピストとしては「個人の心に存在する“世界”を相手にする」という部分がすごくヒットした。
「日本人とアイデンティティ」というテーマを貫きつつ、それまでの著書や講演のダイジェスト版的要素もあるので初心者にもオススメできるんじゃないかな。

みんなが遊びに来るまで帰らないよ。(笑)
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