季語「コレラ船」について思う
今朝(2014年8月7日)の「天声人語」に「コレラ船」という季語があると書かれていました。「コレラ船」が夏の季語、成る程と思いました。
私も昭和21年8月の末頃から10月にかけて「コレラ船」に乗っていました。11歳の時のことです。 . . . 本文を読む
一昨日、「旧満州、終戦後の暴虐」というタイトルで、朝日新聞に掲載された元福岡銀行会長の佃亮二さんの戦争体験を紹介したが、その中で佃さんは「戦争と終戦後の体験で、国民を保護すべき『国家』とは何なのかを考えさせられました」と述べておられる。当時、小学生であったわたしにはそこまで考えることはしなかったが、やはり問題はそこにあったのである . . . 本文を読む
今朝の朝日新聞のコラム「経営者が語る戦争」(3)で、元福岡銀行会長の佃亮二さんが自らの戦争体験を語っておられる。現在78歳ということなので、終戦時は15歳前後で中学3,4年くらいだったでしょうか。「旧満州で生まれ育った私は戦時中、それ程戦争を意識せずに暮らすことが出来ました」という文章で始まる。この実感は当時国民学校3年生であったわたしにも共通するものである。 . . . 本文を読む
榛葉英治著「満州国崩壊の日(上)」(評伝社)を読んでいたら、昭和11年頃の新京市の情景が描かれていた。昭和11年はわたしが生まれた年なので、その風景を見たはずはないが、だいたいその情景はわたしの原風景に近い。 . . . 本文を読む
旧満州からの引き揚げ者の記録はかなり出版されている。最近では、出版されないまでも、Web上で無数といっていいほど、たくさん発表されている。どれも、その人にとってかけがえのない貴重な体験であることには違いはない。
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今朝、目が覚めて窓から雲に覆われている山を見ていたとき、フッと思い出したことがある。わたしは10歳まで旧満州の新京市(現長春)で過ごしたが、自宅、あるいは自宅付近から「山」はまったく見えなかった。東西南北、どの方向を見ても、近くはもちろん遠くにも山は見えていなかった。言い替えると、わたしは10歳まで「山」を見ないで過ごしたということになる。「故郷の山河」という言い方があるが、わたしにとって故郷には山河はない。 . . . 本文を読む
昭和19年3月11日、親爺が「現地召集」ということで、出征した。当時、わたしは8歳で、国民学校1年の終わり頃であった。実はこの時のことは、ほとんど覚えていない。日付はもちろん、わたしの年齢にしても、その後に数えて確かめたことである。
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旧満州の歴史を語り出すと切りがない。いつかは、わたしなりに批判的に整理はしておきたいと思うが、現時点では旧満州で生まれ10歳までそこで生きた者として、思い出の範囲で気付いたことだけを整理しておく。 . . . 本文を読む
「親と子が語り継ぐ満州の『8月15日」の中で、数納勲郎さんが当時の在満邦人の生活を細かく書いておられる。数納さんは1910年生まれで、東大冶金学科を出て、昭和製鋼所に入社した技術者で、それだけに描写が鮮明である。ちなみに、わたしの父より2歳若い。1947年に帰国し、戦後の鉄鋼界で活躍し、日新製鋼を退職後、1983年から回顧録「犬の遠吠え」を執筆しておられる。 . . . 本文を読む
戦争体験をどのようにして子どもに語り継ぐかという課題は、非常に難しい。語る方には語りたいことが山ほどある。ところが、あまりにありすぎて、しかも切実すぎて、言葉よりも思いの方が先行してしまう。おそらく、聞く方の子どもたちの方にとっては、それは遠い過去の思い出話にすぎないし、あまりにも状況が違いすぎて、身に迫るということがほとんどない。そこに情緒的な深いギャップがあって、話す方も空しいし、聞く方もつまらない。とくに満州の経験ということになると、ただ単なる戦争体験以上のギャップがあって、同世代に人々にも通じないもどかしさがある。
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昭和20年8月9日の夕方、母は顔色を変えて仕事先から帰宅し、すぐに持てるだけ貴重品や衣服をもって、出かける準備をしなさいと、わたしたち3人の子どもに命令し、真夏であるにもかかわらず、真冬のように何枚も重ね着をし、リックに入るだけのものを詰め込んで、新京脱出の準備をし、知らせが入るのを待っていた。
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ある日のこと、マーやんの友だちが我が家にやってきて、わたしの中国語を聞いて、マーやんと友人とが、わたしの全く聞いたことがない中国語で会話をしてわたしを驚かせたことがあります。多分彼らはわたしに聞かせたくない内緒話があったのでしょう。そんなことはともかく、彼らの会話を聞いて驚くわたしに、マーやんは笑いながら、この中国語は「南の方の言葉」だと説明してくれました。その時の驚きは忘れられません。これがわたしがはじめてショックを受けた言語体験です。
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当時の在満日本人の普段の足として一頭立てのマーチョはかなり便利な乗り物であったようです。もちろんタクシーもあったと思いますが、市内の買い物などにはマーチョが便利で、我が家でもよく利用していました。 . . . 本文を読む
人間の記憶というものは不思議なものである。すっかり忘れてしまったと思っていたことも、一つのことをきっかけに、次々と芋づる式に思い出してくるものである。昭和15年頃の「新京(現長春)市街風景」の写真集(http://manshusite.hp.infoseek.co.jp/photoarakaruto.htm)を見ていると、記憶の奥底から「懐かしさ」が甦ってくる。
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朝日新聞の夕刊で昨日から始まった「誰が日本と戦ったか──満州の抗日ゲリラ」の連載が始まった。最初の記事で、旧満州で抗日ゲリラ戦を指揮し、30歳の若さで処刑された趙一曼(本名李珅泰)のことが紹介された。 . . . 本文を読む