ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

旧満州での思い出(4)わたしの言語体験

2008-03-18 21:38:59 | 旧満州の思い出
母親が職業を持っていた関係で、家事は中国人のメイドさんが一人でこなしていました。彼女は非常に有能で、掃除、洗濯はもちろん料理はプロ並みで、わたしの両親も彼女をとても尊敬しており、子どもたちは彼女のことを「マーやん」と呼んで、母親同様に慕っておりました。
そういう関係で、わたしの日常会話は、両親とは日本語で、マーやんとは中国語で話しておりました。しかも、実際にはマーやんと一緒にいる方がはるかに多いので、どちらかというと、中国語の方が「マザーランケージ」のようでした。もちろん、もう少し大きくなり小学校に行き始めると、日本人学校でしたから、日本語を使う機会の方が多くなりましたが、ともかく、家族の中では両親よりもわたしの方が中国語は得意で、母とマーやんとの間で「通訳」などをした記憶があります。マーやんの仲間の間では、小さなわたしが中国語を自由に話すので評判になったほどでした。
その頃のことですが、ある日のこと、マーやんの友だちが我が家にやってきて、わたしの中国語を聞いて、マーやんと友人とが、わたしの全く聞いたことがない中国語で会話をしてわたしを驚かせたことがあります。多分彼らはわたしに聞かせたくない内緒話があったのでしょう。そんなことはともかく、彼らの会話を聞いて驚くわたしに、マーやんは笑いながら、この中国語は「南の方の言葉」だと説明してくれました。その時の驚きは忘れられません。これがわたしがはじめてショックを受けた言語体験です。
日本に帰ってきた時から、不思議なことに完全に中国語を忘れてしまいました。それでも、何かの拍子にヒョイと中国語の単語が記憶の底から這い出してくることがあります。たとえば、「ショウハイ(子ども)」とか「ジャングイ(多分旦那さんという意味だと思う)などが、何の脈絡なしに頭に浮かぶことがあります。30歳を過ぎた頃、シンガポールでしばらく滞在したことがありますが、その時、中国人の友人に誘われて、中国人の経営するバーに連れて行ってもらったことがあります。その時、店の中に溢れる中国語を聞きながら、何か非常に懐かしい気持ちになり、「分かったような気分」になったことがあります。ヒョッとすると、今からでも、中国語を習いに行けば、思い出すかも知れない。しかし、なぜかそれはわたしにとってとても恐ろしいことのように感じられる。

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