8月も最終日となりました。昔はこれが夏休みの最終日でした。小学校も、中学校も、高校も、この日が夏休みの宿題の締め切り日でした。9月1日が日曜日だと、確かに「1日、儲けた」という感じでした。でも、最近は2学期の始まりもいろいろあるようです。
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私は「超訳」というのが好きである。特に哲学書や神学書の古典ものは超訳に限る。だいたい、こういう本をしかも翻訳で読むのは研究のために読むというより、自分自身が考えるために読むのである。それが、日本語になっていない翻訳で読むと、思考を妨げることになる。その点で、「超訳」というのは原著者の思考と共に、それを読み考えた第2の著者の思想である。確かに、それは間接的であり、原著者の思想とはずれているかも知れない。否、ずれているだろう。しかし、第2の著者の思考も決して捨てたものではない。
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8月22日(日)
主であるわたしはぶどう畑の番人。常に水を注ぎ、害する者のないよう、夜も昼もそれを見守る。(イザヤ27:3)
わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながって実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。(ヨハネ15:1-2)
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たまには司祭らしい言葉を一言。イエスがくどくどした祈りを軽蔑されたことは有名である。「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」(マタイ6:7)。ここでいう「異邦人」とは信仰というものが分かっていない人たちという意味であろう。つまり、信仰の分からない人は長く祈れば信仰深い、敬虔な人と思う。だから人から信仰深いと思われたい人は長い祈りをする。イエスが軽蔑した人とはそういう種類の人たちである。
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孫がホンモノの長浜ラーメンを食べたいというので、早速ネットや食べ物紹介雑誌などを細かく調査し、店の位置、メニュー、評判などを比較検討し、「こここそ」という店を絞り、出かけました。
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政権交代がなされ、国民は新しい政権・民主党に大きな期待を寄せました。私もその1人です。期待の内容は官僚支配からの脱却であり、天下りに象徴される何兆円レベルの無駄遣いの「仕分け」であり、無駄な公共工事の廃止で、その結果生み出される財政による福祉の充実でした。それに加え、新政権によって今までの従属的な日米関係のが改善され、自主外交が具体化し、沖縄の基地問題も解決するだろうと、期待されました。
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8月15日(日)
私は御もとに身を寄せます。恥を受けることのないようにしてください。(詩編25:20)
わたしたちはイエス・キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。(エフェソ3:12)
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去る16日月曜日、天草で「いるかウオッチング」をしました。熱中症が続出する暑い日でしたが、海は穏やかで、約1時間、船の周りを気持ちよさそうに泳いでいるいるかをウオッチしました。 . . . 本文を読む
先日テレビで放映されたとき、見ることができなかったので録画をしていました。今日は、午前中、その録画をじっくりと見ました。昭和38年に「文芸春秋」で行われた座談会で実際に司会をした半藤一利さんが総合編集者として登場し、テレビでおなじみの人たちが、当時の役割をそれぞれ分担して登場します。 . . . 本文を読む
先日(8月14日)、このブログで「教えてください」というタイトルで、恩師、松村克己の1945年8月15日の日記に玉音放送のことと同時に「原子爆弾」という言葉が用いられている点で、疑問を投げかけました。同時にツイッターでも、その意味のことを囀りましたところ、ご意見をいただきました。
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8月8日(日)
わたしは言いました。「わたしの道を守ろう、舌で過ちを犯さぬように。」(詩編39:2)
同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません。(ヤコブ3:10)
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実は、一寸した必要があって、恩師松村克己の敗戦当時の日記を読み直していて、一つの疑問が出て来ました。というのは、1945年8月の6日から15日までの日記において、広島・長崎への原爆投下のことについて、何も触れられていないのです。当時、戦局には人一倍、関心があるはずなのに、記述が非常に少ないのです。8月6日(月)の日記には以下の記述が見られます。
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このところ、ちょっと堅苦しい文章が続きましたので、息抜きのため、久し振りに挑戦したりんごジャム作りを報告します。先週頃から、我が家のマーマレードが少なくなり、作ろうかと店を覗きましたが、店頭にはスイカが山盛りされています肝心の甘夏が店頭に並んでいません。この季節は、バナナ以外の果物が本当に少ないときです。というわけで、昨日はりんごを買ってきてもらいました。 . . . 本文を読む
西田・田邊を貫く京都学派の強靱な思索のバックボーンは「論理」である。幸か不幸か、松村が大学に入学したその年の5月に突然田邊教授の「西田先生の教えを仰ぐ」という論文が『哲学研究』に発表され論争が始まった。論点は弁証法の徹底ということであった。西田哲学の出発点は「直観」であり、直観の構造の理解が哲学的課題であった。 . . . 本文を読む
一昨日の朝日(2010.8.8)の「るぽ・にっぽん」という記事で散骨のことが取り上げられていた。40年余り、お盆の墓参りを欠かさなかった80歳の男性が、父母らの遺骨を墓から掘り出して、砕き、砂のようにして、海にまいたという。そして、そのことを記者は「墓じまい」という言葉でルポしていた。一人息子は郷里を離れ東京勤め、自分が死んだ後、墓の世話をしてくれる者はいなくなる。というよりも、「わたしの代でけじめをつけないと、子どもにめいわくをかける」という思いが強かったようである。80歳の男性は息子に「いずれ自分もその時が来たら、散骨してもらいたい」というつもりだという。
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