かつて、結核という病気は、「労咳」ともいわれ、非常に怖がられた国民病であった。結核は空気感染によって広がり、治療の方法が転地療法による隔離と休養、栄養補給という消極的な対処法しかなかったことで、一度「喀血」するとほとんど1年以内に死ぬということで恐れられた。
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今朝、目が覚めて窓から雲に覆われている山を見ていたとき、フッと思い出したことがある。わたしは10歳まで旧満州の新京市(現長春)で過ごしたが、自宅、あるいは自宅付近から「山」はまったく見えなかった。東西南北、どの方向を見ても、近くはもちろん遠くにも山は見えていなかった。言い替えると、わたしは10歳まで「山」を見ないで過ごしたということになる。「故郷の山河」という言い方があるが、わたしにとって故郷には山河はない。 . . . 本文を読む
さる、5月23日(金)付のブログ「ぶんやさんち」で「旧満州の思い出」シリーズとして、親爺の「現地召集」のことについて触れた。この文章そのものも、「旧満州の思い出」シリーズにすべきか、「親爺のこと」シリーズにすべきか迷ったのだが、弟から貴重な意見が寄せられたので、一部を再録して、弟の意見を添えたい。 . . . 本文を読む
日本人が普通に使っている「さようなら」という別れの挨拶語は、考えてみるとおもしろい。この言葉は、もともとの意味は「左様ならば」あるいは「そうならば」を意味する接続詞である。日本人は10世紀の半ば以来、この接続詞を別れ言葉として使ってきている。なぜだろう。 . . . 本文を読む
高山樗牛と親爺とを結びつける大きな鍵は「死」ということであろう。「死ぬ」ということをどう考え、どう取り組むのか。「死」というすべての人に関わりを持つ重大事を二十歳前に真剣に考えるにいったのには、「結核」という「早死」を約束されたような病によるものだと思われる。
樗牛にとって、「死」の問題は、「自殺」という無意味さに向かうものではなく、「生」の問題の裏返しである。樗牛は「人生終に奈何(じんせいついにいかん)」を20歳の時に書いて以来、「殉死」ということが中心テーマになっている。ここらあたりに、親爺が樗牛に惹かれたものがあったのかも知れない。「瀧口入道」のテーマも「殉死」である。 . . . 本文を読む
瀧口入道と高山樗牛とを結ぶ一つの鍵は23歳という年齢である。樗牛はこの作品を23歳の時に書いている。瀧口は、23歳の時失恋し、出家し、26歳で生涯を閉じている。
親爺は22歳の時キリスト者となり、24歳で満州に渡っている。要するに、この年齢の頃、人生について悩みと大きな決断とをしている。
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親爺と樗牛のことにまだこだわっている。これを解明しないことには、親爺のことがわからないままである。
高山樗牛は早熟な作家であった。早熟も早熟、あまりにも早すぎた。東大在学中の明治27年に、匿名で読売新聞の懸賞小説に応募し、それが入選し一躍有名になってしまった。その年は優秀作品がなく、入選作「滝口入道」が読売新聞に連載されることになり、多くの人々に注目されたという。樗牛23歳の時のことである。 . . . 本文を読む
朝日の5月22日付の朝刊で、魁皇が「勝ってる相撲と負けてる相撲の差が激しい」と反省らしい言葉を語っている。確かにそうだろう。しかし、23日の朝青龍との取り組みでの勝ちっぷりを見ても、「それでいい」と思うのはわたしだけではないであろう。
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昭和19年3月11日、親爺が「現地召集」ということで、出征した。当時、わたしは8歳で、国民学校1年の終わり頃であった。実はこの時のことは、ほとんど覚えていない。日付はもちろん、わたしの年齢にしても、その後に数えて確かめたことである。
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九州教区婦人会たよりに「退職後見えてきたこと」 というテーマで一文を出せとの依頼があり、下記のような一文を送り、先日印刷され、関係者に配られました。一応、記録のためここに掲載しておきます。
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旧満州の歴史を語り出すと切りがない。いつかは、わたしなりに批判的に整理はしておきたいと思うが、現時点では旧満州で生まれ10歳までそこで生きた者として、思い出の範囲で気付いたことだけを整理しておく。 . . . 本文を読む