ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

断想:顕現後第5主日(2019.2.10)

2019-02-08 13:13:21 | 説教
断想:顕現後第5主日(2019.2.10)

人間をとる漁師  ルカ5:1~11

<テキスト>
1 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。
2 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。
4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。
8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。
9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

<以上>

1. 文脈
い5:1~6:16までの部分はイエスのガリラヤ伝道を総括する4:42~44といわゆる「平野の説教」と呼ばれている部分の導入部6:17~19とに挟まれひとまとまりの部分となっている。新共同訳ではこの部分は8つの段落からなっている。
      1.漁師を弟子にする(5:1~11)
      2.重い皮膚病を患っている人をいやす(5:12~16)
      3.中風の人をいやす(5:17~20)
      4.レビを弟子にする(5:27~32)
      5.断食についての問答(5:33~39)
      6.安息日に麦の穂を摘む(6:1~5)
      7.手の萎えた人をいやす(6:6~11)
      8.12人を選ぶ(6:12~6)
この箇所を資料としたと思われるマルコ福音書と比較すると、最初の「漁師を弟子にする」以外はほぼマルコ福音書1:40~3:19の順序に従っている。マルコ福音書ではガリラヤ伝道の始めに置かれた「漁師を弟子にする」という記事が、ルカ福音書ではガリラヤ伝道の総括の後に置かれることになった。事柄の順序としてはマルコ福音書の方がスムーズである。
このようにして変更されたルカ福音書の順序を見ると、この部分は時間的順序というよりもイエスと弟子との関係を中心に描かれているという印象を持つ。単純にこの順序を考えるときマルコではイエスの伝道活動において弟子の存在は不可欠であるということがわかる。それに対してルカでは弟子の存在は必要条件ではない。活動の拠点がナザレからカファルナウムに移された初期のイエスの伝道活動(ルカ福音書4:31~44)には弟子は登場しない。マルコ1:36の「シモンとその仲間」という言葉がルカ4:42では削除されている。

2. ペトロ、ヤコブ、ヨハネの召命
本日のテキストはシモン・ペトロとその仲間ゼベダイの子ヤコブとヨハネの3人がイエスの弟子になったいきさつが語られている。この記事もルカはマルコ福音書を参照していることは間違いないと思われるが、かなり違いが大きすぎる。先ず簡単な点としてはマルコでは4人の漁師たちの召命であるがここではペトロの兄弟アンデレが欠けており3人の漁師となっている。その点も気になるがそれよりも大きな問題はマルコ福音書ではペトロたちとイエスとの出会いの前には何の関係もなくイエスは一方的にいきなり「わたしについて来なさい」(マルコ1:17)という。それに対してルカ福音書では故郷ナザレを出たイエスは単独でカファルナウムで伝道活動をしており、その関連でカファルナウムのペトロの家で姑の病気を癒しており(ルカ4:38~41)、イエスとペトロとが顔見知りであったことが前提となっている。
この件におけるマルコ福音書とルカ福音書との最大の相違はペトロがイエスの弟子になる直接的動機となった出来事、大漁の奇跡物語である。このドラマティックな奇跡の結果ペトロは「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深いものなのです」と信仰を告白し、イエスから「あなたは人間をとる漁師になる」と宣言される。

3. 弟子入り伝承プラス大漁伝承
この大漁の奇跡物語はルカが2つの伝承を組み合わせたものである。1つはルカ以前に既に伝承されていた大漁物語(4~9)、もう一つはマルコにおけるペトロらの弟子入りの伝承(マルコ1:16~20)である。ルカはマルコ福音書の記事を読んで、イエスの漁師たちとの出会いと「人間をとる漁師にしよう」というイエスの呼びかけとの間に、大漁物語を挿入している。この大漁物語と非常に類似した物語がヨハネ福音書21:1~14にも見られる。この2つの物語を比較すると共通点が非常に多く、おそらくもともとは同じ伝承であったものと思われる。ヨハネはこれを復活後のイエスと弟子たちとの再会の場に適応している。注目すべきことは、この際会の直後にかの有名な「わたしの羊を飼え」と3回繰り返されたペトロとの対話が続く。
もう一つ注目すべきことは、ルカはマルコの弟子入り伝承に「一切(パンタ)を」という後を挿入する。パンタという後はルカが好む表現です。この表現はレビを弟子にする際にも「彼は何もかも捨てて」(5:28)に引き継がれる。さらにルカはマルコの不定過去形を未完了過去形に直し、従っている状態が現在も継続していることを示し、それを強調するために「今から後」という語を付加する。この句はイエスの命令以前の生活様式とそれ以後とが全く別の新しい状況に移ったことをしめすルカが好む表現である。

4. 「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」
「お頼みになった」。ここでイエスはペトロたちに船に乗せてもらうように頼む。マルコ福音書ではイエスとペトロたちとの出会いは「ガリラヤ湖のほとりを歩いておられた」(マルコ1:16)の出来事として描く。そしてイエスは突然「わたしについて来なさい」と呼びかける。いかにも唐突であり不自然である。マルコはそういうことには無頓着なのだろう。ルカはそういうことはできない。この出来事の前にイエスとシモンとは既に出会っている。しかもイエスはシモンの姑の病を癒している。つまり、シモン・ペトロはイエスに借りがある。そこでイエスはペトロに群衆への説教の手伝いを願う。この段階でペトロは既にイエスの伝道活動に参加している。その上での大漁の奇跡物語である。
群衆への話しが終わると、イエスはペトロたちに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言い出した。イエスのこの言葉は漁のことを何も知らない、まさに漁の素人の「たわむれの言葉」としか思われない。漁の専門家であるペトロの立場から見るとイエスの言葉はいかにも素人っぽい言葉に思われたであろう。しかしペトロはこのイエスの言葉に対して「お言葉ですから」と言って、言われたとおりにする。日本語で読むと「お言葉ですから」と非常にていねいな表現になっているが、「お言葉」という言葉にはレーマという言葉が用いられている。これは「口から発せられた音声としての言葉」という意味である。この段階でのイエスの言葉はまさに「口先の言葉」で、神の言葉というような深遠な意味をもつ言葉ではない。従ってペトロが「お言葉ですから」と言ったとしてもそれは「イエスの言葉」だからというような意味は含まれていない。むしろルカがこの段階でペトロにこのように語らせていることには、一種の皮肉が含まれているように思う。「したってどうせ無駄だけれど、お客さんのいうことですから、まぁ一応はやってみましょう」という「たわむれ」も含まれている。しかし同時にこれはこの物語の結末へ向けての伏線でもある。その点からこの物語の設定となった5:1の言葉は群衆は「神の言葉(ロゴス)」を聞こうとしてイエスの元に集まったのであった。イエスによる普通の日常的な言葉(レーマ)が「神の言葉(ロゴス)」になる。
ルカはこの「神の言葉(ロゴス)」という言葉を4回使っている(5:1,8:11,21,11:28)。

5. 奇跡
ところがイエスの言われた通りに「沖に漕ぎ出して網を降ろすとおびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」。まさに奇跡である。2そうの船が魚で一杯になった。これを見て、ペトロは「イエスの足元にひれ伏した」(5:8)。ここでも用いられている「ひれ伏す」という単語「プロスピプトー」は嵐の時雨風が家の壁を打つような状態を示す非常に激しい言葉で、「恭しくひれ伏す」などという意味ではなく「ぶっ倒れる」とでも訳すべき言葉である。この奇跡を見てペトロはイエスの足元にぶっ倒れたのである。思わぬ大漁で人々は驚き、喜び、踊り、神への感謝を叫ぶ。「やはり神は生きている」。しかし、その中でたった一人ペトロだけはイエスの前にぶっ倒れている。そして言う。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(5:8)。ここでペトロはイエスに向かって「主よ」と呼びかけている。この言葉は神への呼びかけの言葉である。そこに立っているのは、今まで付き合ってきた、お世話になった「先生(エピスタシス)」(5:5)ではなく、「主(キュリオス)」である。その主に向かってペトロは罪を告白する。ここで言う罪とは通常考える道徳的な罪、あるいは信仰者がよく口にする自己反省に基づく自己の姿を言うのでもない。「それは自分の外にある鏡(絶対他者としての神)に向き合って初めて自分が見える自分の姿である」(藤井孝夫『無花果の木の下で』日本の神学研究会、63頁)。だから、「お赦しください」という言葉ではなく「離れてください」としか言えない。

6. 「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」
このイエスの言葉は、「主(キュリオス)」が語っている言葉である。これを聞くペトロはこの言葉を神の言葉として聞く。従って「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5:5)という言葉は、この言葉に対応する。神の顕現に遭遇し、神の前にぶっ倒れ、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と告白した人間が、神から「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と呼びかけられたとき、ただ「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えることができる。この答えしかない。この言葉を聖職への召命とだけ思ってはならない。「網を降ろす」ということは神の仕事への参加である。そんな大それたことをわたしはできない、という言い訳は不要である。神があなたを神の仕事の中で用いてくださる。

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