ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 04/15~04/21

2012-05-01 06:12:03 | ローズンゲン
losungenj 2012.04.15(sun)
わたしがあなたに与える命令は平和、あなたを支配するものは恵みの業。(Isa60:17)
パウロの手紙:すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。 (2Cor4:15)
私の黙想:
今日の聖句は終末において実現する栄光に輝くイスラエル王国の情景(いわゆる千年王国以後)。イスラエルは神の僕として全世界を支配、統治するという希望。その時イスラエルが掲げるマニフェストは「平和」、統治するものの有り様は「正義」であるという。

文屋善明 私の秘密を告白しますと、旧約聖書を読んでいて分からないところがあると、そっと開いて読むのがホーリネスの米田豊先生の『旧約聖書講解』(全2冊)です。私は東京聖書学院時代に米田先生から旧約聖書を学びました。米田先生の強みは聖書を徹底的に読み込むということでしょう。この箇所も米田先生の著書からヒントを得ました。
長倉 崇宣 注解書の「合う」「合わない」ということはあると思われますか?僕も米田先生の『旧約聖書講解』は机の上に置いています。

文屋 善明 米田豊先生は人間としての波長ということでいうと、多分「合わない」方だと思います。特に個人的に親しくして頂いたというかんじはありません。しかし、聖書への「読み」の深さということについては「絶対的な信頼」をおいています。もっとも、現代の聖書学とは全然違うということは当然のことですが、そんな違いは「笑って済ませる」程度のことです。

長倉 崇宣 ありがとうございます。僕は米田先生の注解書と併せて、いわゆる注解書ではないかもしれませんが、雨宮慧神父(上智大学神学部)の著書にも教えられています。

文屋 善明 私も時々雨宮神父の著書に触れることもありますが、結局現代の聖書学というレベルでは無教会の関根先生親子などの方が親しみを感じています。変な言い方をすると「誰でもいい」という感じです。その意味では渡辺善太先生や米田先生は別格です。

losungenj 2012.04.16(mon)
主は、あなたの国境に平和を置いてくださる。(Ps147:14)
平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。(Mat5:9)
私の黙想:
日本人には「国境」という意識が希薄である。従って「領土」という認識も薄い。だから、原発の爆発によって失われる(生存、使用不能になる)地域について「領土」を失うのと同じことなのだという認識が殆どないに等しい。沖縄の基地も「占領された領土」である。

losungenj 2012.04.17(tue)
わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。(Eze11:19)
パウロの手紙:キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(2Cor5:17)
私の黙想:
バビロニア捕囚という民族存亡の危機を乗り越えて形成される新しいイスラエル共同体は捕囚以前とは全く異なったものでなければならない。
新しい共同体を形成するものは「一つの心」であり「新しい霊」である。当然そこでは「古い共同体」を維持・回復しようとする勢力と「新しい共同体」の形成・復活を目指す勢力との戦いがある。ここに復活信仰への萌しが見られる。
3.11以後、私たちは新しい共同体を目指して「古い日本を維持・回復しようとする勢力」とが激しく戦っている。
私は二つの勢力を単純化して「回復派」と「復活派」とする。そのときにパウロの言葉が意味を持つ。
エゼキエル書37章のドライボーンが甦るシーンを思い起こす。

losungenj 2012.04.18(wed)
命のある限り、あなたをたたえ手を高く上げ、御名によって祈ります。(Ps63:5) 
わたしたちは霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。(1Cor14:15)
私の黙想:
当たり前のことであるが、祈りは「願い」ではない。願いには終わりがある。祈りは賛美である。賛美には終わりはない。「命のある限り」賛美し続ける。賛美こそが神との交わりの中心である。当たり前のことであるが、多くの人はこの点を間違っている。教会においては、祈祷会よりも賛美会があってもいい。聖公会の「夕の祈り」を英語では「Evensong(夕べの歌)」という。

losungenj 2012.04.19(thu)
あなたたちは主の祭司と呼ばれ、わたしたちの神に仕える者とされる。(Isa61:6)
あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。 (1Pet2:9)
私の黙想:
今日のNTの言葉が示すキリスト者の選民思想とイザヤの言葉における選民思想とはかなり大きな落差がある。預言者は続いて「国々の富を享受し、彼らの栄光を自分のものとする」と語る。これは選民思想というよりも「仕えるという名」の「特権者意識」に過ぎない。

losungenj 2012.04.20(fri)
人々が、代々に御業をほめたたえ、力強い御業を告げ知らせますように。(Ps145:4)
目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこその人々をいやされた。祭司長たちや、律法学者たちは、境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立てた。(Mat21:14-15)
私の黙想: 
「力強い御業」を告げ知らせるということ。私たちの様な小さな弱い存在が告げ知らせるということ。果たしてその必要があるのだろうか。もしあるとしたら、神の御業は人々には見えない場合である。私達は天地万物の美しさ、不思議、それが神の御業だと賛美する。

losungenj 2012.04.21(sat)
主を畏れることは諭しと知恵。(Prov15:33) 自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。(1Cor8:2-3)
私の黙想:
人間は他の動物と比べると殆どの能力において劣っている。ただ知恵だけが生きていく上での武器である。その知恵の源泉はどこにある。考えてみると実に不思議である。そもそも「考えてみると」ということが人間を人間たらしめている。人間は最初に何を考えるのか。まず、人間が作られた存在であるということ、創造者との関係を考える。

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