ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2017/12/17~12/23

2017-12-24 06:04:07 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2017/12/17~12/23

2017 日々の聖句 12月17日(日)
死期が近づいたとき、ダビデはこう言って王子ソロモンを戒めた。「わたしはこの世のすべての者がたどる道を行こうとしている。(あなたは勇ましく雄々しくあれ。)あなたの神、主の務めを守ってその道を歩め」。(列王記上2:1~3)

パウロの言葉:(こういうわけで、そのことを聞いたときから、)わたしたちは、絶えずあなたがたのために祈り、願っています。どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結び、神をますます深く知るように。(コロサイ1:9~10)

私の黙想:
今日の聖句、読むものの置かれている立場によって、ずいぶん違った印象を持つだろう。今の私にとってはあまりにもストレートすぎて、感想など出て来ないし、まして黙想など出来やしない。今さら、私の子や孫にこんなことを言えないし、言う必要もないだろう。今までの私の生き方を最も身近に見てきた連中に、こういうことを言わなければならないとしたら、それこそ悲劇である。いや、喜劇かな。これを畏まって聞いているソロモンの気持ちはどんなんだったのだろう。勿論、ダビデはソロモンを一番愛したであろうが、やはり自分自身の出生の秘密、もはやそれは秘密ではないが、それを思うとき、自分自身の存在の根拠が絶えず問われている。と、いうことで今朝のローズンゲンはストップする。

2017 日々の聖句 12月18日(月)
主はとこしえに契約を御心に留められる。千代に及ぼすように命じられた御言葉を。(詩105:8)

かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。(ロマ15:4)

私の黙想:
私たち日本人キリスト者が「御言葉信仰」とか「聖書は神の言葉」という場合に、「契約」という観念が完全に抜けているということに気付く。聖書の民、つまりイスラエル民族からユダヤ人に至るまでの歴史を振り返ると、彼らが「神の言葉」という場合に、それは「契約の言葉」を意味している。これは彼らの骨の髄まで浸透している理解である。だから言葉は重い。絶対に「言の葉」ではない。
契約とはそれを結んだ両者を決定的に束縛する。これは人間を制約するだけではなく、神の方も制約している。だから、人間だけが逃げようにも逃げられない。それこそ契約が追いかけてくる。過去が現在を縛り、未来を方向付ける。恐ろしいことは聖書における神人関係あるいは人間関係においては愛よりも契約が優先する。
ということで、次元の低い実例を、聖書によって生きる人間にとっては親子関係よりも夫婦関係が優先する。何故なら、夫婦関係は契約関係であり、親子関係は契約なき愛の関係だからである。親に対して子は自由である。何からも縛られていない。そこが親子関係の面白さであろう。

2017 日々の聖句 12月19日(火)
カレブからヨシュアへの言葉:一緒に行った者たちは民の心を挫きましたが、わたしはわたしの神、主に従いとおしました。(ヨシュア14:8)

忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。(ルカ21:19)

私の黙想:
カレブとヨシュアの物語。子どもの頃から教会に通っていない信徒にはこういう物語を案外知らないことが多い。出エジプト物語と言えば、40年間荒れ野をさまよった物語ばかりが出て来て、何故、40年間も、それ程広くないシナイ半島をさまよったのがという重要な物語が飛んでしまっている。
ということで、カレブとヨシュアの物語を子供の視点に立って読んでみよう。聖書では民数記13~14章と、ヨシュア記に出てくる。出エジプトしたイスラエルの民は紅海徒渉というような大奇跡を経験し、それ程時間もかけずに、目的の地であるカナンへの入口近くのカデシバルネヤに到着しました。もともとカナンの地は先祖アブラハム一族が住んでいた土地ででしたが、もはやモーセ以下その場所の実情を知りません。それでモーセは12部族からそれぞれ一人づつ斥候者(要するにスパイ)を選出し12人の調査隊をカナンの地に潜入させます。
彼がそこで見たものは豊饒な土地で、果物や農作物は今まで見たこともないほど大きく、ぶどう一房も大人がふたりで担がねばならないほどで、ヤハウェが言われた通りそこは「乳と蜜の流れる地」でした。
しかし、それは同時にそこに住んでいる先住民たちも巨人のように大きく、腕っ節も強うそうで、戦争と言うことになれば、荒野を旅してきたイスラエルの疲れ果てた姿では、戦える相手ではありませんでした。それで12人の斥候たちの内で10人は、怯えきり、カナンの地に入っていったら全滅すること間違いないという報告をいたします。それを聞いた、イスラエルの大衆も、彼らの言う言葉を信じて怖じ気付き、カナンの地への侵入を諦めようとします。
しかし、12人の内のカレブとヨシュアの2人だけは、あの地はヤハウェが約束して入れた土地であり、ヤハウェが付いている限り、私たちは勝つ、と主張します。それで、大衆は、モーセとカレブとヨシュアを殺して新しいリーダーを決めようとします。
その時、ヤハウェは怒り、ヤハウェを信じない連中、その時には20歳以上の者、つまり、出エジプト以来行動を共にしてきた連中はカナンの地へは「入れない」と宣言し、彼が皆死ぬまで荒れ野をさまよえ、と命じます。そして、その通りに、彼らはそれ以後40年間荒れ野をさまよう民となりました。
そして、40年の地、神はもーせにもカナンの地に「入れない」と宣言し、ヨシュアをモーセの後継者とします。その時、ヨシュアと共にカナンの地への侵入を主張したヨシュアの「同信の友」カレブの言葉が、今日の聖句である。
いろいろ、大人の目から読めば、バカらしいこともあるし、とうてい「歴史的事実」とは思えないかも知れないが、聖書を文化として生きている文化圏では、子供の時から繰り返し聞かされてきた物語であろう。ちなみには、私の教名は「ヨシュア」である。

2017 日々の聖句 12月20日(水)
秘密を明かす天の神がおられます。(ダニエル2:28)

「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:20~21)

私の黙想:
今日の聖句、何か直訳臭くて落ち着きがない。口語訳では「秘密をあらわすひとりの神が天におられます」で、この方がもう少しましだが、要するに「秘密を明らかにする神が天におられる」ということが言いたいのであろう。しかしこれをバビロンの王に語るダニエルにとって、どうしても、「私たちの神」とバビロンの「作られた神」との違いを強調しようと思うと「天の神」となり、神の唯一性を強調しようとすると「ひとりの神」となる。
両方とも言いたいことは、私たちの神は秘密を明かす神なのだ、という点にある。この裏には、どうだ、バビロンの神々が束になってかかっても、私たちの神には敵わないであろう、という自慢がある。実は、そもそもダニエル書とはそういうことを強調している文書なのである。強力な多神教社会において唯一神教を強調しようとしている点では、日本人には分かりやすい文書である。
ここからもう一歩、前に進むと、全世界の政治的、経済的、つまり全世界の運命を支配しているのは、「私たちの神だ」という思想になる。「秘密を明かす」とはそういう意味である。ダニエル書の面白いことは、神はそれを「夢」によって明らかにするというストーリー運びである。

2017 日々の聖句 12月21日(木)
主よ、わたしは御救いを仰いで待ちます。(詩119:166)

主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。(ルカ2:26~28)

私の黙想:
「御救いを仰いで待ちます」の部分、口語訳では簡単に「あなたの救いを望み」だけである。「望み」も悪くはないが、私なら「待ちます」と訳す。「望み」では遠い将来のことになり離れすぎ。「仰いで」も不要でしょう。「待つ」で十分だ。
2008年のことだからかなり前のことになるが、私は鷲田清一先生の『「待つ」ということ』を取り上げて、考えたことがある。降臨節になると、この本のことを考える。
http://blog.goo.ne.jp/jybunya/e/75de1d67d7174e43acbdafbeec59a462
キリスト教信仰の最も根源的な有り様は「待つ」である。しかもその「待つ」は待つ対象が不在の「待つ」にまで至る。波多野精一先生は「未来」と「将来」という言葉を使い分け、神との関係における未来は「将来」、まさに起ころうとしている未来だという。その意味では「クリスマス・イヴ」状態が、信仰者の生き方である。その意味では今日の新約聖書の聖句ははピッタリだ。シメオンは「待つ人」であった。待っていたからこそ、幼児イエスを見て「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」(ルカ2:29~30)と神を讃美した。

2017 日々の聖句 12月22日(金)
私たちは、今日、主に逆らい、主に背く(主の幕屋の前にあるわたしたちの神、主の祭壇とは別に祭壇を築き、焼き尽くす献げ物、穀物の献げ物、和解の献げ物をささげる)つもりなど、全くありません。(ヨシュア22:29)

エマオの若者の言葉:道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(と語り合った。そして)、時を移さず出発して、エルサレムに戻った。(ルカ24:32~33)

私の黙想:
ヨシュア記21章で、カナンの土地の配分が決定し、イスラエルの12部族はそれぞれ自分たちに割り当てられた土地に分かれて行き、そこでヤハウェとの約束を守って生活した。ところが、12部族の内のルベン族とガド族とマナセ族の半分は、多分自分たちに割り当てられた領土に不満があったのか、あるいはそこには強力な異民族が住んでいたのか、何らかの理由で、その土地の原住民の宗教とも上手くやっていくために、ヤハウェの祭壇の他にもその土地の神々の祭壇を築いた(10節)。その知らせを聞いて、ヨシュアは他の10部族の代表者を集め、この2部族に警告を与えた。「主の共同体全体はこう言う。お前たちが今日、イスラエルの神、主に背いたこの背信の行為は何事か。お前たちは、今日、自分たちのために祭壇を築いて、主に逆らっている」(16節)。
ここで12部族全体を「主の共同体全体」と表現しているのは面白い。しかも、この2部族と半部族がヤハウェに逆らい、背くならば、その災いは「主の共同体全体」に及ぶのだという(18節)。もし、自分たちに与えられた土地が穢れているというなら、そこを捨てて、主の共同体全体で、もう一度分配し直そうではないかとまでいう。実はこの土地の分配には大きな問題があった。それがヨルダン川をによって分断されていたからであったようだ。ともかく、ここで彼らは踏みとどまることが出来たのであるが、これは後々まで尾を引く問題となる。
今日の聖句で私の注意を惹くのは「つもりなど、まったくありません」問い言葉である。この言葉は口語訳には見られないが、文章全体においてその意志、決断が込められているのであろう。太平洋戦争が敗戦で終わり、新しい憲法によって国を再建しようとしたとき、日本人は国民全体の意志として、今後は戦争など決して行わない「つもり」であったが、その意志には偽りはなかった。斜視今も、その「つもり」は生きているのだろうか。人間の「つもり」とはそういう者であろう。

2017 日々の聖句 12月23日(土)
主からヤコブへの言葉:見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。(創世記28:15)

(こうして、)わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。(夜が明け、)明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。(2ペトロ1:19)

私の黙想:
今日の聖句は、イサクの双子の息子の弟の方が、いろいろあって、イサクの家におれなくなり、母リベカの手引きによって家出し、リベカの実家のあるハランに向かって旅をする場面である。おそらく、その第1夜、荒れ野でただひとり野宿し、文字通り「石を枕に寝た」。その夜、ヤコブは夢を見る。ヤコブの寝ている枕元から天にも届く梯子(新共同訳では「階段」)が現れ、そこを天使たちが昇ったり降ったりしている。これが、いわゆる「Jacob’Ladder」である。
そしてヤハウェがヤコブの前に立ち、「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る」(28:13~14)。この場所をヤコブは「ベテル」と名付ける。(「ベテル」については、また別の機会に譲る)
この約束の言葉は重要である。まさにヤコブからいうと祖父にあたるアブラハムへのヤハウェの約束の言葉に匹敵する約束である。このような約束はイサクも聞いていなし、エサウも聞いていない。まさにアブラハムと同レベルの後継者である。後に、ヤハウェによってヤコブの名前が「イスラエル」と改められる。今日の聖句は、まさにその出発点である。
ヤコブにとって、そしてそれはイスラエルの歴史にとって最も基本的なパターン、「出て行き、連れ帰る」イスラエル史とは、これの繰り返しである。ここでは、いちいち取り上げないが、この繰り返しの原点はアダムに始まる。エデンから出て、エデンに戻る。これが聖書における救済史である。

最新の画像もっと見る