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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2015/09/06~09/12

2015-09-12 09:13:12 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/09/06~09/12

2015日々の聖句 09月06日(日)
後の世代に語り継ごう、主への賛美、主の御力を。主が成し遂げられた驚くべき御業を。(詩78:4)
ただで受けたのだから、ただで与えなさい。(マタイ10:8)
私の黙想:
この詩の年代には諸説がある。要するに民族の歴史から教訓を学び、それを次世代に語り継げということ(1節〜8節)。
今日の聖句に選ばれている直前の言葉が気になる。「子孫に隠さず」。民族の歴史には「隠したいこと」「不名誉なこと」がある。「いいこと」ばかりではない。「不名誉なこと」も隠さず子孫に、永遠に語り継ごうという。
先日、FB(服部弘一郎氏ブログ「映画瓦版」)でドイツの映画『顔のないヒトラーたち』の紹介を読んだ。第2次世界大戦時にドイツ民族が行ったナチスによる「アウシュビッツの恥」が現在のように公になる以前、戦後10年ほど、1950年代のドイツ国民にはほとんど知らされていたなかったという。それを一人の新聞記者が、「ナチスの戦犯が小学校の教師をしている。これは許されることではないぞ!」。と叫んでいるのを目撃したが、誰も見て見ぬ振りをしている。「(彼は)アウシュビッツにいたんだぞ」と言われても、誰もそんな地名を知らなかったという。それを聞いた一人の若き検事が、大変な妨害の中で、1963年に「フランクフルト・アウシュビッツ裁判」を開かせるまでの闘いを描いているという(10月5日、東京にて上演予定)。この裁判の結果、ドイツは自分たちが犯した「人類史上マレに見る大犯罪」の事実に直面し、それを懺悔するところから現在のドイツがある、という。日本は果たして、本当に日本人による「民族の恥」に直面しているのだろうか。語り継がれているのだろうか。何か、もやもやした霞の彼方に霞んでいるように思う。

2015日々の聖句 09月07日(月)
主よ、わたしに代わって争い、わたしを贖い、仰せによって命を得させてください。(詩119:154)
パウロの手紙:キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。(2テモテ1:13)
私の黙想:
「わたしに代わって争い」の部分を口語訳、フランシスコ会訳では「わが訴えを弁護して」と訳している。印象はかなり違う。「わたしに代わって争い」では自分自身の主張が見えてこない。「弁護してください」だと、自分自身の訴えに主体的に関わっているという印象が明瞭になる。この場合、ヤハウェは弁護士の立場である。新改訳はもっと面白い。「私の言い分を取り上げ」と訳している。ここでは、ヤハウェは裁判官の立場であり、自分自身が直接訴えている必死さが感じられる。これによって訴えの根拠も「仰せ」「約束」「み言葉」と変化する。この場合の「み言葉」はいわば「訴訟法」であろう。求めているのは「公正な裁判」である。
翻訳するということは本当に難しい。翻訳者によって原著者の主張は歪められ手しまうことが多い。特に、聖書の翻訳ということになると、読む人は多種多様であり、読まれる状況も、いろいろである。その具体的状況に対して「永遠不変」のメッセージが語られる。聖書の言葉が歪められることなく、読者の心に届けられなければならない。そこでは翻訳者の「立場」や「主張」や「個性」は可能な限り消されなければならない。それが聖書の翻訳の難しさであろう。そうでなければ、逆に、「これは私の訳である」ということを明瞭にして、ある意味で「歪んでいる」ことの全責任を負う覚悟がなければならない。

2015日々の聖句 09月08日(火)
救いは主のもとにあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。(詩3:9)
憐れみと平和と愛が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。(ユダ2)
私の黙想:
この詩はダビデ家内部でのスキャンダル。いわゆる「アブサロムの反乱」、息子が親に武力を持って氾濫し、反乱軍をに追われる王、息子を思う父親の狭間の中での葛藤。表題の「ダビデがその子アブサロムを逃れるた時」は後代の加筆であろうとされる。何時の時代にも同じようなことが起こる。本気になって「闘う」気にもなれず、「負ける」わけにもいかず。世間の人々は面白がって「噂」をまき散らす(3節)。最終的には息子は偶発的な出来事で死に、父親は勝利する。しかし、父として本当にそれを喜べるのか。ここでの「救い」とは何か。「救いは主のもとにある」とはどういうことか。私自身の手で「敵」を滅ぼしたのではない、ということか。しかし、何とか威儀を正して「父親」として世間様の前に「祝福の祈り」をする。現代ではテレビの前に事情を説明する、ということか。

2015日々の聖句 09月09日(水)
天にいます神に向かって、両手を上げ心も挙げて言おう。(哀歌3:41)
憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:16)
私の黙想:
今日の聖句は「祈りの姿勢」、祈りは「天にいます神」に向かう姿勢。つまり神はここ、私の側にはいない。逆に、両手も心も天に向かって挙げるときに、私の状況そのものに対して、何もしない、あるいは何も出来ないという姿勢である。いや、いもっと逆を言うと、私は私自身の状況に対して無力さを感じ、何も出来ないと言うことを自覚するとき、心も両手も挙げて、「天にいます神」に祈る。
もっと厳密に言うと、新共同訳が「言おう」という言葉を補っているが、原文には「言おう」という言葉さえない。つまり、「祈る」という言葉もなければ、「祈る言葉」もない。祈れない。完全な「お手上げ状態」が祈る姿勢の根本である。こんな姿勢は、密室でないと取れない。巷で大声で祈る祈りなどは、本当の祈りではない。イエスはそんな祈りなど止めてしまえと言われる(マタイ6:5~7)。

2015日々の聖句 09月10日(木)
主であるわたしは変わることがない。(マラキ3:6)
神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」(黙示録1:8)
私の黙想:
マラキ書3章が旧約聖書の最期の章である。また、最後らしい書であるとも言える。<ただし、ヴルガタ訳、その他いくつかのヘブライ語写本では19節以下を「第4章」とする。>1節の「あなたたちが待望している主」の「主」はヤハウェではなく、「アドナイ」である点に注意。キリスト教会では、イエスをこの「主」とする。この「主」と区別してヤハウェのことを「万軍の主」と呼ぶ。
本日の聖句の「主」は「万軍の主」である。つまり、今日の聖句は、世の終わりに、万軍の主が使者として「主(アドナイ)」を送るが、「万軍の主」である私は不変であるという宣言である。
万軍の主の「使者」としての「主(アドナイ)」は、(終わりの日に)現れて、人々を「精錬する」。つまり、民の中から汚れたものを取り除き、浄める。つまり、それが最後の審判の予告である。この思想がヨハネ福音書における「審判」の思想に受け継がれている。

2015日々の聖句 09月11日(金)
多くの国々は主に帰依してわたしの民となる。(ゼカリア2:15)
すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。(ロマ10:12)
私の黙想:
今日の聖句だけを読んでいると、一つの神の元に成立した統一された世界というイメージのように見えるが、この章全体を読むとき、ユダヤ民族のいわば「中華思想」のように思われてあまり感じは良くない。「世界統一」という言葉は臭い。それはそれとして、ここで用いられている「帰依して」という単語、何か聖書の言葉として馴染まない。口語訳では「多くの国民が主に連なって」と訳している。フランシスコ会訳では「多くの国々が主に従い」、新改訳では「多くの国々が主につき」。それぞれかなり苦労しているようである。要するに全世界の大半が「同じ神」を信じるようになるという「理想世界」なのであろう。そしてエルサレムが世界の中心になるという。果たして、そんな世界が「住み良い世界」なのだろうか。16節の言葉が意味していることは何だろう。「主は聖なる地の領地として、ユダを譲り受け、エルサレムを再び選ばれる」。ここでは「主が選ぶ」のであるから、批判できることではないが、「再選される」という言葉が異常に反応してしまう。いろいろな国があって、それぞれの住民が「わたしたちの国が一番良い」と主張し合うことが出来る方が、よほど良い世界ではないだろうか。

2015日々の聖句 09月12日(土)
御名を畏れ敬うことができるように、一筋の心をわたしにお与えください。(詩86:11)
死者の中から復活された、イエス・キリストのことを思い起こしなさい。(2テモテ2:8)
私の黙想:
「御名を畏れ敬うことができる」ために、たった「一筋の心」でいいのだろうか。あれも、これも、それこそ全生活がかかっているのではないだろうか。ここでの「一筋の心」とはいったい何か。ここの部分口語訳とはかなり違う。口語訳では「心をひとつにしてみ名を恐れさせてください」となっている。例によってフランシスコ会訳を見ると「ひたむきな心を与え」である。ついでに新改訳では「私の心を一つにしてください」。これらの訳を見ると新共同訳の「意外性」がよくわかる。「一筋」という言葉は「細長い物の一本」という意味で、通常では「一筋の光」とか「一筋の道」というような場合に使われる。「すべてのものを束ねて一本にする」という意味とはかなり違う。しかし新共同訳の「意外性」をいくら批判しても黙想にならない。
私は今日の聖句を読んだときに、最初に思い浮かべたの芥川龍之介の「蜘蛛の糸」である。ストーリーは繰り返さない。自分が救われるために1本の細い細いにしがみついている。ところが下を見ると多くの罪人がその糸にしがみついている。それを見て糸が切れることを恐れ「この蜘蛛の糸は俺のものだ。下りろ」と叫んだ。その時無惨にも神は彼のすぐ上で糸を切られた。そして彼は多くの罪人と共に地獄に落ちていったという。この一筋の糸は自分だけのものでは決してない。この糸には多くの人も連なっている。「一筋の心」は自分だけの救いを願う心ではなく、多くの人を救う心である。そういう「一筋の心を」を与えて下さい。今朝の黙想は詩編とは大分かけ離れてしまいました。

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