ぶんやさんち

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親爺のこと(4) 人生終に奈何

2008-05-09 20:34:31 | ぶんやんち
今日は、前回紹介した高山樗牛のことについて、簡単に紹介しておく。
高山樗牛(たかやま ちょぎゅう)は明治4年1月10日に山形県鶴岡で生まれた。本名、林次郎。
東京帝国大学哲学科卒。「奈良朝の美術」によって文学博士号を取得。在学中の明治27年(1894)、匿名で読売新聞の懸賞小説に応募、「滝口入道」が入選し話題となった。上田敏らと一緒に「帝国文学」の出版した。卒業後、出版社博文館に入社し雑誌「太陽」の編集主幹となり、文学、哲学、美学など多岐にわたる評論を発表した。1900年頃、夏目漱石と共に英国に留学する予定であったが、肺結核が悪化したため断念した。明治34年(1901)、東京帝大の講師となったが、翌年31年の短い人生を閉じた。ちょうど、その1年前に、「美的生活を論ず」を発表している。

高山樗牛は20歳(明治24年6月)の時、「人生終に奈何(じんせいついにいかん)」という1500字足らずの短い文章を書いている。おそらく東京帝国大学哲学科入学前後の頃のことであろう。内容は、現代の言葉でいうと「生き甲斐」についての疑問である。人生におけるいろいろな局面が取り上げられ「予甚だ之に惑ふ」という言葉が繰り返される。いかなる功績も、名声も、富も、快楽も、死んでしまえば、それで終わりで、やがては忘れられ、無に帰してしまう。一時的な名誉も、あるいは千年続く名声も、結局は同じことである。著者は結びにおいて、「生前の事業、夢中の観の如く、死後の名聞、草露の如くんば、茫然たる吾が生、夫れ何くか寄せん、大哀れと謂はざるけんや。嗚呼人生終に奈何」と嘆く。
これが樗牛24歳の頃の文章である。
病死する1年前、31歳の時書かれたのが、「美的生活を論ず」という短い論文で、ここでは「本能満足説」が提唱されている。この論文は20歳の時に書いた「人生終に奈何」に対する答えである。

親爺が、樗牛とどういう出会いをしたのか、何を読んだのか、樗牛の何に惹かれたのか、ほとんど知る手がかりがない。強いて言えば、東北人であること、結核に罹っていたこと、人生の目的について悩んでいたことぐらいである。「ぐらいである」という言葉は決して軽くはない。しかし、それなら、樗牛以外にもいろいろな人がいただろうし、藤村操が「萬有の真相は唯だ一言にして悉す、曰く『不可解』」という遺言を残して華厳の滝に飛び込んだのは、樗牛の死の翌年のことである。つまり、人生論はその時代の青年たちのいわば「流行」であった。その時代的背景の中で、親爺はなぜ樗牛であったのか、その答えは見えない。ただ、現代のわたしの目から見ても、樗牛の作品は非常に高いレベルの思想を示している。

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