ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2015/06/21~06/27

2015-06-28 06:38:50 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2015/06/21~06/27

2015日々の聖句 06月21日(日)
貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンで、わたしを養ってください。(箴言30:8)
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。(マタイ6:11)
私の黙想:
箴言30章は箴言らしくないと言うべきか、これぞ箴言と言うべきか。特別の取り出さないと見落としてしまう不思議な言葉集。面白い言葉が並んでいる。と言うより、踊っている。冒頭の話者の名前江戸時代の俗語「ヤケのヤンパチ(自棄のやん八)」と読みそうである。そうそう信仰者は自棄になったらいけませんね。でも、今日の言葉いいですね。上から見ても、下から見ても、横から見ても、正面から見ても、「欠点」がない。これぞ小市民的クリスチャンのささやかな祈り。明治のキリスト者には豪傑が多かったが、明治の終わり頃から大正以後のクリスチャンにはこのタイプが多い。ちょうど私の両親の年代だ。まぁ、大正デモクラシーとキリスト教との相性がよかったせいか。その流れがそのまま昭和に引き継がれている。
その意味では5~6節はピッタシだ。「神の言われることはすべて清い。身を寄せればそれは盾となる。御言葉に付け加えようとするな。責められて偽る者と断罪されることのないように」。大きな事は臨まない。神にお願いすることはただ二つ。その一つが「むなしいもの、偽りの言葉をわたしから遠ざけてください」、もう一つが今日の聖句。9~10節なんか、何とも言えないおかしさが醸し出されている。「飽き足りれば、裏切り主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働きわたしの神の御名を汚しかねません。僕のことを主人に中傷してはならない。彼はあなたを呪い、あなたは罪に定められる」。
まぁ、半分は私にも当てはまるので、今朝はその程度にしておく。

2015日々の聖句 06月22日(月)
わたしの足は大きく踏み出し、くるぶしはよろめくことがない。(1サムエル22:37)
イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。(マタイ9:9)
私の黙想:
2サムエルの最後の4章(21~24章)は補遺と言われている。ダビデの生涯におけるいろいろな場面での資料集である。特に21章はダビデ王が想定される敵という敵をすべて平定して、王権を確立したときにヤハウェに捧げた感謝の歌で詩編18とほとんど同じである。
今日の聖句は威風堂々と大股で歩くダビデの姿を描いている。まさに歴戦の勇士、もはや敵なしという自信に溢れている。同じ文章を口語訳では「あなたはわたしが歩く広い場所を与えられたので、わたしの足はすべらなかった」と訳し、フランシスコ会訳では「あなたはわたしの歩幅を広くされ、わたしのくるぶしが挫けることはなかった」、新改訳では「あなたはわたしを大股で歩かせます。わたしのくるぶしはよろけませんでした」。ほぼ似たようなイメージである。同じ原文の翻訳だからそれは当然のことであろう。
私が興味深く思うのは「くるぶし」である。威風堂々と大股で歩くのには「くるぶし」が肝心である。太ももでもないし、脹ら脛でもない。まして足の裏でもない。くるぶしがしっかりしていたら、よろめくことも、すべることもない。このくるぶしは足の内側と外側に分かれおり、それをつなぐのがアキレス腱である。ギリシャ神話のアキレウスも面白いが、旧約聖書でもこの部位については面白い逸話が残されている。
ご存知、後にイスラエルの名前の元になったイサクの双子の息子の弟の方、ヤコブは生まれたとき、先に生まれたエサウの「かかと(アケブ)をつかんでいたの」ヤコブと名付けられたという(創世記25:26)。この物語はダビデとはまったく関係ないが、イスラエルの歴史としては「面白エピソード」である。
私は毎朝起きたとき、このくるぶしとアキレス腱とのストレッチを丁寧にしている。堂々と歩くためにはここが肝心なのだ。

2015日々の聖句 06月23日(火)
人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びをわたしの心にお与えください。(詩4:8)
パウロの手紙:わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。(フィリピ4:11)
私の黙想:
どういう関連があるのかこれから考えるが、今日の聖句を読んで真っ先に「衣食足りて礼節を知る」という言葉が私の頭をよぎった。衣食住によって支えられている生活が豊かになると、礼節、つまり生活におけるメンタルな面が整えられるということであろうが、本当にそうだろうか。むしろ美味しい食べ物、美味しいワインに対する欲望は与えられれば与えられるほど、さらに欲しくなるもので、「衣食足りて」ということには境地にはならないのではなかろうか。例えば、たとえにならないかも知れないが、マイカー、軽自動車に乗っている人は軽自動車で満足できず、もっといい車が欲しくなる。国産車に乗っている人は外国の高級車が欲しくなる。よい車に乗っている人が交通ルールをキチンと守るのかといえば、むしろいい車に乗っている人ほど運転が乱暴になるし、ルールを無視するようになる。だから事実は逆で、メンタルの面で満足している人は、衣食がどれ程貧しくても、それで満足できるのではないだろうか。
面白いことに、フランシスコ会訳では「あなたはわたしの心に喜びを与えてくださいました、彼らの小麦とぶどう酒が豊かだったときにも勝って」と訳している。この二つの訳を比べて、何が、どう違うのか考えている。新改訳も面白い。「あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにあるときに勝っています」。面白いでしょう。ついでに文語訳を見るともっと面白い。「汝のわが心に与えたまいし歓喜は、彼らの穀物と酒との豊かなる時に勝りき」。この面白さは「私」の歓喜と「彼ら」とが比較されていることです。岩波訳ではこの「彼ら」についてこれは3節の「人の子ら」を指して居ると注釈を加え、「人々」というような人間一般ではなく、ある種特定の人々を示しているという。私の喜びは、あの連中が上手いものを食って、美味い酒を飲んで喜んでいるよりもはるかに大きいのだということを意味しているという。負け惜しみでなく、私もそう思う。だから、「衣食足りて礼節を知る」のではなく、メンタル面での豊かさが、衣食における満足感の根拠である。

2015日々の聖句 06月24日(水)
背信の子らよ、立ち帰れ、と主は言われる。わたしこそあなたたちの主である。わたしはあなたたちを連れてシオンに行こう。(エレミヤ3:14)
そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。(マタイ3:1~2)
私の黙想:
この章は1節から恐ろしいことが書いてある。ややこしい夫婦関係である。夫が悪いのか妻が悪いのかよく分からない。要するに、一旦別れた夫婦は元に戻らないということなんだろう。この夫婦とはイスラエルとユダとの関係がたとえられている。おそらく北のイスラエルが妻で南のユダが夫なのであろう。そしてこの文章はユダ側からイスラエル側への戻って来いという呼びかけである(12節)。ここで「主」が登場するからややこしい。主は言われる。「主はわたしに言われる。裏切りの女ユダに比べれば、背信の女イスラエルは正しかった」(11節)。本日の聖句の真ん中の句「わたしこそあなたたちの主である」の「主」をフランシスコ会訳では「夫」と訳している。ここで文脈はゴチャゴチャになる。主は調停者なのか、夫なのか。要するに「覆水盆に返らず」状態なのである。預言者エレミヤはそれを何とか元に戻そうと努力している。しかし、厳しい現実は、結局、イスラエルの10部族は「シオン(=エルサレム)に戻らず、歴史的には消えた10部族という謎を残している。現在「ユダヤ人」と呼ばれているのは、元々南のユダ国と呼ばれていた2部族(ユダ族とベニヤミン族)なのである。(参照:ウィキペディア「失われた10氏族」)
後味の悪い黙想になってしまいました。

2015日々の聖句 06月25日(木)
主は恵みを与えようとして、あなたたちを待つ。(イザヤ30:18)
見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。(黙示録3:20)
私の黙想:
強大国アッシリアに責められ国は滅ぼされようとしている。その時アッシリアに対抗できるのはエジプトだけである。さぁ、エジプトと軍事同盟を結んで生き延びる道を選ぶべきか、エジプトは信頼できるか。この章のはエジプトと同盟を結ぶことは無駄だと語る(1~3節)。預言者イザヤはただヤハウエを信頼して何もするなと語る。「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(15節)。そして今日の聖句である。ヤハウエは待っている。この「待つ神」という思想は面白い。両手を広げ、こちらが「助けて」と叫ぶ声を待っている。その声を聞くまで神は動かない。どうするか、ハラハラしながら待っている。聖書の神は、そういう神なのだ。戸の外でとを叩きながら、内側から開くのを待っている。無理矢理に、扉を破って入ってこない。出来るのにしない神である。重要なことは助けることではなく、信頼されること。いや、神の信頼している。必ず助けを求めると信頼している。待つ神は信じる神でもある。

2015日々の聖句 06月26日(金)
天よ、喜び歌え、地よ、喜び躍れ。山々よ、歓声をあげよ。主は御自分の民を慰め、その貧しい人々を憐れんでくださった。(イザヤ49:13)
すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。(テトス2:11)
私の黙想:
イザヤ書49章、実にややこしい。「わたし」が誰か、イスラエルの民が「わたし」になったり神が「わたし」になったり、14節以下ではシオン、つまりエルサレムが「わたし」になる。口語訳やフランシスコ会訳では、「主はこう言われる」という言葉の後に引用符号がついているのでわかりやすいが、新共同訳ではそれがないので、注意深く読まないと間違うおそれがある。今日の聖句はいったい誰の言葉なのだろうか。少なくとも「主」ではない。一応、イスラエルの民の言葉であろう。ところが、これに続く14節以下との落差はなんだろう。14節冒頭の「しかし」(口語訳)は何を意味するのだろうか。言葉の内容から考えると、主と民との対話の中に突然割り込んでくる第3者的立場からのコーラスのようである。その意味では「預言者」の言葉とも取れる。わからない。わからないが、わからないままに、喜びの歌であることはわかる。主によって救済された者の歓喜の歌である。主によって救われた者は自分だけで喜んではいられない。すべての者と共に喜びたいし、天も地も、万物が喜んでいると感じる。これはまさにルカ福音書15章5~7節で描かれている羊飼いの喜びである。

2015日々の聖句 06月27日(土)
神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせられました。(詩8:6)
御父は、御心のままに、真理の言葉によってわたしたちを生んでくださいました。それは、わたしたちを、いわば造られたものの初穂となさるためです。(ヤコブ1:18)
私の黙想:
フッと立ち止まって、神を賛美している私に驚く。私が神を知り、神を賛美している!詩人はこのことに驚いている。私も他のすべての被造物と同じように、神に造られたものではないか。一つの被造物にすぎない人間が、造物主である神をほめ讃えている。私が作っているいろいろなものが私をほめ讃えることがあるのだろうか。考えてみると不思議(wonder)である。「そのあなたが御心に留めてくださるとは人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょうあなたが顧みてくださるとは」(5節)。考えてみると、すべての被造物も、歴史も、「私」を中心に回っているように思える。(この感覚と「自己チュー」とを混同しないで下さい。むしろ「天動説」に近い感覚です。)この驚きの前に詩人は、そして私は立ち竦んでしまう。

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