ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 11/28

2010-12-05 07:02:35 | ローズンゲン
11月28日(日)
わたしの魂よ、主をたたえよ。わたしの内にあるものはこぞって、聖なる御名をたたえよ。(詩103:1)
ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放された。(ルカ1:68)
私の黙想
詩人の言葉は徹底的に「自己の内部」に向かうが、それが同時に全ての人間に共通の普遍性につながる。この特殊即普遍という構造が詩の基盤である。詩一般に通じるかどうかは分からないが、旧約聖書の詩編の魅力はそこにある。
私の黙想
11月29日(月)
ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。(ヨシュア24:16)
イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(ヨハネ14:23)
私の黙想
おかしなもので、ヨシュア記の言葉を読むとお袋の声がする。何か叱られているような感じ。因みに「ヨシアキ」という私の名前はヨシュア記に拠る、と母はいつも語っていた。

11月30日(火)
あなたはわたしたちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。
キリストは常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。(ヘブル7:25)
私の黙想
「これは墓場まで持っていきます」という秘密も、駄目か。何もかも全て白日の下にさらけ出させるのは、どうだろう。隠したいことをソッとしておくのも「愛」ではないだろうか。

12月1日(水)
その日に、あなたは逃れて来た者に向かって口を開いて語り、もはや黙しているな。
引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。(マタイ10:19)
私の黙想
「逃れてきた者」とは誰か。何から逃れているのか。神による刑罰から逃れてきた者か。よく分からない。考える。

12月2日(木)
主の慈しみをとこしえにわたしは歌います。わたしの口は代々に、あなたのまことを告げ知らせます。
わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。(1コリント15:57)
私の黙想
ここでの「歌う」も「告げ知らせる」も、実際に口を開く行為である。ということは、生きているときにしかできない。「とこしえに」とか「代々に」は詩的誇張的表現。

12月3日(金)
わたしは多くの戒めを書き与えた。しかし、彼らはそれを無縁のものと見なした。(ホセヤ8:12)
イエスの言葉:「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7:21)
私の黙想
イスラエルは形骸化した宗教(信仰)のモデル」でもある。この言葉の直前に、「エフライム(=イスラエル)は罪を償う祭壇を増やした。しかし、それは罪を犯す祭壇となった」という言葉がある。

12月4日(土)
あなたはわたしの助け。救いの神よ、わたしを離れないでください。見捨てないでください。(詩27:9)
実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。(テトス2:11)
私の黙想
9節から12節まで祈祷書の訳では省略されている。理由は不明。確かにここの部分では調子が変わる。「御顔を隠す神」、「見捨てる神」という思いが背景にある。詩人の心は揺れ動いている。ここに登場する「貪欲な敵」、「偽りの証人」、「不法を言い広める者」とは誰か。この部分を抜いた詩27は十字架のないキリスト教のようである。


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