ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 04/08~04/14

2012-04-30 06:44:32 | ローズンゲン
losungenj 2012.04.08(sun)
苦役を課せられて、かがみ込み、屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。(Isa53:7) しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。 (1Cor15:20)
私の黙想:口語訳では「彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった」である。文語訳では「口を開かない」の前に「謙りて」という語が挿入されている。文語訳には翻訳者の感情が込められている。口語訳が最も素直な日本語訳。それにしても新共同訳の「かがみ込み」は意訳にもなっていない。「かがみこみ」では者への抵抗の姿勢になってしまう。

文屋 善明 門叶さん、今朝は門叶さんの解釈を先に読みましたのでかなり影響を受けています。

門叶 国泰 今朝は、7時半には家を出るため、4時半に起きたので!明日は、寝坊します。文屋先生の黙想をゆっくり味わってから!
losungenj 2012.04.09(mon)
わたしは、主がわたしの口に授けられる事だけを語るように注意すべきではないでしょうか。(Num23:12) 語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。 (1Pet4:11)
私の黙想:
「わたしの口に授けられる事」という言葉をいかに理解するのか。単純な逐語霊感説に立つとまさに「口述筆記」を想像する。しかし、これはあくまでもヘブライ的強調表現であって、日本語的にいうなら神を信じていない人が「天地神明に誓って」というのと同レベルの事であろう。
神の言葉を語る者は、社会的な利害関係や権力への媚びによって歪められていない真実を、つまり「御用学者的思考回路」を断ち切って語れという意味であろう。「主がわたしの口に授けられる事」とは預言や説教だけではなく、科学的に明らかになった事実をも含む。

文屋善明:「神の言葉」を語る者は預言者に限らない。神の民にも限定されない。路傍の転がる「石」も神の言葉を語る。神の言葉は内容も限定されない。人間生活の全領域が神の言葉の内容になり得る。と、私は思っています。
門叶国泰:納得!ルカ19:40、山本有三「路傍の石」ポンチ絵画家・黒田が吾一に呟いていますね「The very stones cry out!」

losungenj 2012.04.10(tue)
人が神より正しくありえようか。造り主より清くありえようか。(Job4:17) キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。 (Tit2:14)
私の黙想:
この「当たり前すぎる言葉」は一体何を語ろうとしているのか。この言葉はヨブの友人エリファズの言葉だ。彼はヨブが今直面している人生における深刻な問題を少しも理解していない。ヨブは神が神であることに問題を感じているのだ。危機に直面している人に対する「当たり前すぎる言葉」は残酷である。

門叶国泰
今日のローズンゲンは、ヨブ4:17です。新共同訳「人が神より(ミン)正しくありえようか。造り主より(ミン)清くありえようか。」
「神より」と訳されている前置詞「ミン」は、主として比較に用いられるので、KJ&NEB&New International&新共同訳は、そのまま「神より(正しくありえようか)」と訳している。しかし、この疑問は余りにも当たり前過ぎて不自然ではないか。したがって、Amplified&NAS&口語訳&新改訳&フランシスコ会訳は、「ミン」を「before」と解し、「神の前で(正しくありえようか)」と訳している。RSBは「before」と訳した上で「or more than」と注を付けている。
このテーマは、ヨブ記では他に3か所出てくる。ただし、9:2&25:4では(比較の前置詞)「ミン」ではなく(対して、と言う意味の前置詞)「イム」が用いられている。15:14では、「神」と言う言葉はなく、単に「正しく・清くありえようか」となっている。
対する新約はテトス2:14「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖いだし、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。」
私:そうなんです。当たり前すぎるのです。それをわざわざ繰り返すのが「教条主義(?)」の特徴でしょう。

門叶国泰:ヨブ記4:17の続きA.S.Peake(Professor University of Manchester) 「Job」に次のような解説が載っていた。(1904年発行富士見町教会第三代牧師 三吉務牧師の蔵書)「この問いはあまりにも当たり前すぎる。よって、そのまま訳したのでは不適切。ここは、「be just before God,be pure before his Maker」と訳すべきである。」B6判 350ページの何とも小さな注解書に、しっかりと問題点が指摘されている。昔から論議の的になっていたのだナーとある種の感慨をもって読んだ。三吉牧師は、畏友佐藤真一教授の祖父、この書は佐藤教授より昨年のクリスマスに頂いた。
私:私自身の「あまりにも当たり前すぎる」という認知は、昔からあったのですね。驚きました。
門叶国泰:文屋先生の感性に脱帽!

losungenj 2012.04.11(wed)
神は、わたしの労苦と悩みを目に留められた。(Gen31:42)
パウロの言葉:わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。 (1Cor15:58)
私の黙想:
神が「目を留められた」ら、もう大丈夫。ここに至るまでが大変だった。神が目を留められたら神の民の歴史の潮の目は変わる。出エジプト記2:25「神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた」。私はこの言葉が大好きだ。これが祈りの手応え。この変化は世の権力者には見えない。

losungenj 2012.04.12(thu)
主よ、あなたはわたしのともし火、主はわたしの闇を照らしてくださる。(2Sam22:29) キリストの言葉:わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。 (Joh12:46)
私の黙想:
ダビデは時の権力者サウル王によって生命を狙われ、国内に安全な居場所を見いだせず、国外に逃亡し、最終的には痴呆者の姿を装おって生き延びた。その苦難の日々を顧み、その時神のガイダンスだけが頼りであったと、神に感謝を捧げる。

losungenj 2012.04.13(fri)
主よ、あなたの慈しみが、我らの上にあるように、主を待ち望む我らの上に。(Ps33:22) 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。 (Eph2:8)
私の黙想:
誤解を恐れず、非常に主観的な感想を述べると、神は「偏り見る神」である。何故なのか、と本気で考えると理由は分からない。信仰者が皆そう思っているのか、他宗教の人たちがどう思っているのか、そんなことは分からない。でも、確かに神は私に贔屓している。

losungenj 2012.04.14(sat)
わたしたちの主は大いなる方、御力は強く、英知の御業は数知れない。(Ps147:5) イエスの言葉:人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。 (Mak10:27)
私の黙想:
「わたしたちの神」とはこの神である。この神以外に私の神はいない。幼子は、母親とは何かという認識もなく、産まれるという出来事についての何の知識もなく、男と女という差異も知らず、何の証拠もなく、母親の胸の中で憩う。なぜか、彼が私の神である。

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