ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/3/11~3/17

2018-03-17 17:16:30 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/3/11~3/17

2018 日々の聖句 3月11日(日)
わたしたちの神よ、僕の祈りと嘆願に耳を傾けて、荒廃した聖所に主御自身のために御顔の光を輝かしてください。(ダニエル9:17)

小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。(ルカ12:32)

私の黙想:
今日の聖句はダニエルの長い祈り(4~19節)の中の1節である。この祈りはダニエルだけの祈りではなく、当時にバビロンに捕囚されていたイスラエル人すべての祈りであった。祖国はバビロン等諸国の侵略によって荒廃し、イスラエルの神殿は荒れ放題であった。
それは周辺諸民族の笑いものになっていた。笑われているのは、彼らの神ヤハウェである。そうなってもまだ、ヤハウェ信仰に固執することが笑いものにされた。もう事実的には、神殿は破壊され、ヤハウェと呼ばれる神の無力さが露呈し、イスラエルという民族は滅亡したのも同然であった。にもかかわらず、バビロンの捕囚民となっていたイスラエルの民は、何時の日か必ず、ヤハウェは力を現し、捕囚の地から解放され、祖国に復帰し、神殿は再建されると信じていた。その信仰がこの祈りの中に込められている。
あれから7年、3月11日を迎える度に、ほとんどすべての日本人は、東北地方を襲った地震と津波、東北地方の太平洋側はほとんど壊滅状態にされた「あの大震災」を忘れない。しかし災害復興は遅々として進まない。もちろん、そう簡単に復興できるような災害ではなかった。
あの災害の前に起こった阪神・淡路大地震はまだ一部爪痕が残ってはいるものの復興は進んでいる。あの災害の後で起こった九州における地震・災害も希望を持って復興途上にある。阪神・淡路の災害も、九州における災害も、基本的には自然災害で、後は金と時間の問題であり、それは人間の能力の限界内のことである。そこには完全復興への希望がある。
しかし東北地方の災害の「特殊性」は自然災害だけではなかったことによる。そこに人間の能力の限界を超えた原発事故がからみ、放射能による汚染という特殊性が絡んでいる。この問題が解決しない限り、いやたとえフクシマの原発を完全に廃止したとしても、放射能による汚染は半永久的に残る。そのことのためにフクシマへの復帰はほとんど不可能に近い。むしろ、放射能による被害は、土地を通し、人体を通して進行中である。そこに私たちの能力の限界がある。原発がある地域には常にこの危険性がある。人類が原発に依存している限り、この危険性から免れることはできない。フクシマの現実は私たちにそのことを語り続けている。

2018 日々の聖句 3月12日(月)
主は、滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ、わたしの足を岩の上に立たせ、しっかりと歩ませてくださった。(詩40:3)

イエスの言葉:はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。(ヨハネ5:25)

私の黙想:
この詩において描かれている「私」はいわば模範的な信仰者の姿であろう。それは旧約聖書も新約聖書も、それこそ、ユダヤ教も、イスラム教も、キリスト教も仏教も通してすべての宗教の信仰者の理想像であろう。「確固たる人生」、「ふらつくことのない生活」、自信に満ちた生き方、それらがすべて「神」によって与えられ、もし神から離れたら彼の人生は「滅びの穴」「泥沼」で這いつくばって生きるしかなかったという。
「わたしに向かってはやし立てる者が恥を受けて破滅しますように。あなたを尋ね求める人があなたによって喜び祝い、楽しみ御救いを愛する人が主をあがめよといつも歌いますように。主よ、わたしは貧しく身を屈めています。わたしのためにお計らいください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。わたしの神よ、速やかに来てください」(16~18節)。
これが彼の祈りであり、讃美である。彼は確かに素晴らしい信仰者に違いない。
しかし、私はこういうタイプの信仰者は嫌いだ。この世のむなしい快楽に誘惑されたり、それを反省したり、チョットした幸運に大喜びしたり、不運には泣いたり、食い過ぎたり、騒ぎすぎたり、自己を誇ったり、落ち込んだり、日々迷いながら、時には神に反抗しながら、結局は神に負けて懺悔する、私はそういう信仰者でありたい。

2018 日々の聖句 3月13日(火)
肥えた牛を食べて憎み合うよりは、青菜の食事で愛し合う方がよい。(箴言15:17)

パウロの手紙:たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。(1コリント13:1)

私の黙想:
このような格言的な箴言の言葉は文語訳が相応しい。「蔬菜(そさい)を食ひて互に愛するは、肥たる牛を食ひて互に恨(うら)むるに愈(まさ)る」。「蔬菜(そさい)」とは「野菜」の古い言葉。「愈(まさ)る」も難しい言葉だが、意味は「〜〜よりましだ」という意味である。さて、「恨(うら)む」という漢字はなかなか深い。まぁ、意味は「憎しみ合う」でいいのだが、直接的な意味は「敵対する」である。ただ、この「恨」という漢字については現代用語で言う「うらむ」とは少々違うようである。面白いことにこの漢字は時には「憾」という字を当てることがあるらしい。
偉い人が謝罪するような場合によく使われる「遺憾に思う」の「憾」である。この「遺憾に思う」とは一体どういう意味であろう。「人から不利益を受けた場合に、その人に対して不満や不快感を心に抱き続ける」ということである。と言うことは、ただ、「敵対する」とか「憎み合う」とはかなり違う。表面的には一緒にいても、心の中で不快感を懐き続けることを意味しているらしい。そう言えば「遺憾に思う」という言葉も、相手に対して何らかの損害を与え、不快感を与えたことを申し訳なく思うという意味らしい。
ところで、この箴言では、この単語が「愛し合う」と対照的に用いられている。とすると、逆に「心中で不満を懐き続ける」と対比された「愛し合う」という意味になる。ビフテキを食いながら「心の中で不満を懐いている夫婦」、と粗食ではあるが「愛し合っている夫婦」とがイメージされる。
やっぱり文語訳はいいですね。

2018 日々の聖句 3月14日(水)
それ(預言)は終わりの時に向かって急ぐ。(人を欺くことはない。)たとえ、遅くなっても、待っておれ。(ハバクク2:3)

ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。(2ペトロ3:9)

私の黙想:
ハバクク書はバビロン(カルディア)による危機が迫る状況において書かれている。それでもなお、人々はユダにはエルサレムの神殿があり、そこに早が鎮座しているから、外国などによって滅ぼされるはずがないと信じていた。
そういう状況の中で、預言者エレミヤなどは、バビロンによって滅ぼされ、捕囚される、と預言し、それはヤハウェによる懲らしめであると語っていた。そして「ヤハウェによる懲らしめ」には必ず終わりがある。その意味では、エレミアは捕囚期間を70年間と予想し、その間に悔い改め忍耐することを語る。
しかし預言者ハバククはほぼ同じ頃の預言者であったが、ヤハウェから示されたメッセージは少し違う。ハバククはどんなに悲惨状況になっても、その状況に負けてしまうのではなく、その状況に逆らってヤハウェを信じる信仰が救う(2:4)。このメッセージを板に書いて民衆に語れ。終わりは必ず来る。しかも、もう時間がない。
民族を救うのは神殿でもないし、時間でもない、ただ信仰だけである。
パウロは、このハバククの預言から「信仰」を学んだ。パウロは2回もハバククの言葉を引用している(ローマ1:17; ガラテヤ3:11)。「 義人は信仰によりて生くべし」。

2018 日々の聖句 3月15日(木)
主の命令はまっすぐで、心に喜びを与える。(詩19:9)

イエスの言葉:あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。(ヨハネ15:10~11)

私の黙想:
詩19編は私の好きな詩編の一つである。私はこの詩のタイトルは「神の言葉賛歌」だと思っている。前半1節から7節までは自然(天地万物)における神の言葉の賛歌。一口にまとめて、天地万物がすべて神の言葉の顕れである。後半の8節以下は神の言葉と人間との関係、神の言葉が人間に顕れる形、「主の律法」(8)、「主の命令」(9)、「主の戒め」(9)。この詩では神の言葉がいろいろな表現で出てくる。
そして最後の15節で「わたしの口の言葉」が、主の御心の表れであるようにと祈る。

2018 日々の聖句 3月16日(金)
あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り通された。(申命記2:7)

イエスの言葉:わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。(ヨハネ8:12)

私の黙想:
「あなたの手の業」、何と美しい言葉であろう。「手の業」だからといって何も手工業だけを意味していないであろう。ということで、口語訳では「 あなたのするすべての事」と訳している、しかし、これでは人間のすることすべてが必要なものではなく、また神から祝福されるものではないだろうか。結構、人間は悪いこともする。文語訳では「汝が手に作ところの諸の事」と訳している。これらの3つの翻訳を比べていると「翻訳」というサ行の面白さが伝わってくる。おそらくヘブライ語原文ではそれらすべてを含む文章なのであろう。
コンビニも、スーパーもマーケットのない荒れ野での生活を生き抜くためには人間は必要なものをすべて作り出さなくてはならない。しかし人間には無から何かを作る能力はない。そこで必要なものは「神の祝福」である。
神の祝福の元に人間が生き抜くために必要なものを人間が作り出す。ここで新共同訳が「手の技」ではなく「手の業」という珍しい単語を用いているのは面白い。それが神は人間の全産業を祝福しておられる。

2018 日々の聖句 3月17日(土)
わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを、あなたは癒してくださいました。(詩30:3)

キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。(ヘブル5:7)

私の黙想:
私は今、病床にいるが、それ程「激しく」癒やしを叫び求める気にならない。心の何処かで、なるようにしかならない、と思っているし、それが最善だと思っている私がここにいる。もちろん、そんなことを考えるのは私が80歳を越えているからであろう。ということは、私には80年以上の「生」がある。その生は必ずしも誇るべきものではないかも知れない。しかし、一生懸命生きてきた。そこでは「生きる」ことを激しく求めて生きて生きた。
癒やされるか、癒やされないかは、私には関係ない。むしろ、願うことは、ただ一つ、私が生きてきたように死ぬということだけである。
来週はいよいよ受難週だ。キリストはまさに生きてきたように死んだのだ。死によって、生が汚されなかった。

「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです」(2コリント5:4)。

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