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ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2018/10/28~11/3

2018-11-03 08:32:53 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2018/10/28~11/3

2018 日々の聖句 10月28日㈰
主はアブラハムに「あなたを(大いなる国民にし、あなたを)祝福し、あなた(の名を高める)が祝福の源となるようにする」と言われた。(創世記12:2)

悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。(1ペトロ3:8)

私の黙想:
今日の「日々の聖句」は省略も多く、新共同訳と比べるとかなり無理があり、ポイントが曖昧になっている。結びの言葉は「あなたの名を高める」というところにあるようだが、「の名を高める」が省略されているので、「祝福の源となるように」となり、文章が崩れているので「日々の聖句」では「する」を補うという無様な形になっている。口語訳では「あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」で、文章としてはしっかりしている。これはただ単に文章の良し悪しではなく、ポイントの置き方が異なっている。「あなたの名を高める」ことがポイントか、それとも「あなたは祝福の基となるであろう」に重点があるのか。
文語訳から口語訳、フランシスコ会訳では「祝福の基」と訳されてきた言葉を新共同訳ではあえて「祝福の源」と訳している。面白い訳は新改訳で「あなたの名は祝福となる」と訳している。「源」か、それとも「基」かこれはかなりややこしい神学論争のネタになりそうである。
このややこしい訳文の違いは次の言葉で明瞭になる。「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う」。これは面白い。ペトロがイエスについて正しい答えを口にしたとき、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ16:19)と述べられた。ここでの祝福の言葉とは逆方向である。

2018 日々の聖句 10月29日㈪
あなたは立って、わたしが命じることをすべて。彼らに語れ。(エレミア1:17)

立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。(エフェソ6:14~15)

私の黙想:
今日の聖句は聖書の言葉にかなり手を入れているので、もとの言葉を引用しておく。「あなたは腰に帯を締め立って、彼らに語れ、わたしが命じることをすべて」。
「立って」の前に「あなたは腰に帯を締め」という言葉がある。この言葉を省略してしまうと「立って」が肉体的にただ「立つ」という意味になってしまう。「腰に帯を締めて立つ」ということは相当な覚悟を意味している。ここはエレミヤが預言者として召命を受ける場面である。
また、今日の聖句に続く言葉も見落としてはならない。「彼らの前におののくな。わたし自身があなたを彼らの前でおののかせることがないように」。この文章、口語訳では「 彼らを恐れてはならない。さもないと、わたしは彼らの前であなたをあわてさせる」。この後半の文章が微妙である。フランシスコ会訳では「彼らの前で怯えてはならない。わたしがお前を彼らの前で怯えさせることにならないように」となっている。要するに預言者が民衆の前で怯えたら、ヤハウェ自身が預言者を叱りつけるという意味であろう。
「おののく」「恐れる」「怯える」の違いは問題ではない。新改訳は非常に明解である。「彼らの顔に怯えるな。さもないと、わたしは彼らの面前で打ち砕く」。あまりにも明解すぎて、ホントウかなと思ってしまう。そこで最後の切り札、ケンブリッジ注解書を見るとこうなっている。「エレミヤよ、奮い立て。立ち上がって、彼らに語れ。私が命じるすべてを彼らに告げよ。彼らを見てあなたの元気をくじかせるな。さもなくば、私が彼らの眼前であなたをくじこう」。要するにこういうことなんだ。
実は、これはすべての聖職者が初めて説教をするときに経験することでもある。説教台に立って、会衆に向かうとき、すべての会衆が「敵」に見えてしまう。手足がガタガタ震え、準備してきた原稿がすべて間違っているかのように思ってしまう。私が語るこれらの言葉は本当に神からのメッセージであっるのか。私の言葉にすぎず、すべての会衆はそのことを知っているのではないだろうか。
おそらく預言者エレミヤも同じことを経験したのであろう。

2018 日々の聖句 10月30日㈫
くじは膝の上に投げるがふさわしい定めはすべて主から与えられる。(箴言16:33)

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイ6:33)

私の黙想:
聖書は「占い」を厳しく否定するが「籤」には肯定的である。最も有名な籤は使徒言行録第1章で12弟子から脱落したユダに代わる使徒を選ぶときであろう。イエスが選んだのでない一人の使徒を決定するという教会の歴史上非常に重要な場面で「籤」が出ている。勿論、数人の候補者の中からいろいろ協議して候補者が2人に絞られ、最終的には「籤」によりマティアが選ばれた。どうやら聖書では「籤」には神の意志が働くという信仰があったように思われる。そこには「人間による判断」の限界が示されているように思う。
まぁ、ここまでは「籤」についての正当な判断であろうが、もう一つ、別の側面から言うと、「籤」によって決定されるということについての「諦め」があるように思う。あの人は嫌だとか、こんな奴が選ばれるとは選ぶ奴のレベルが分かるとか、という種類の「人の思い」を断ち切るというのが「籤」である(ように思う)。

2018 日々の聖句 10月31日㈬
モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、(どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。)どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。(出エジプト32:11~12)

だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。(ロマ8:34)

私の黙想:
今日の聖句は聖書を開くとかなり長く、「日々の聖句」では、括弧の中を省略している。ここではヤハウェが怒っておられる。「燃える怒り」というから烈火のような怒りであろう。イスラエルの民を滅ぼしてまいそうな調子である。何しろ「ノアの箱舟神話」を信じている民族である。
モーセが神から呼び出されて山の上に登ったきり帰ってかない。待ちくたびれた民衆はモーセの兄を焚きつけて、金を集め「金の子牛」の鋳像を造り、これを「これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だとして拝み、そのお祭りを大々的に行った。ヤハウェはそれを知りモーセに急いで下山させた。その情景を見たモーセは烈火のごとく怒り、ヤハウェから頂いた十戒が記されている2枚の石を投げつけ、破壊してしまった。
今日の聖句はその後の出来事で、ヤハウェも怒りイスラエルの民を滅ぼしそうな勢いである。それを見たエジプト人も大笑い。民はモーセに悔い改めヤハウェの怒りを静めるようにたのむ。それを受けて、モーセはヤハウェに執り成しの祈りをする。今日の聖句はその時のモーセの祈りである。

2018 日々の聖句 11月1日㈭
わたしは大いなるつどいの中で、あなたに感謝し、多くの民の中で、あなたをほめたたえるでしょう。(口語訳、詩35:18)

すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。(フィリピ2:11)

私の黙想:
新共同訳では、「優れた会衆の中であなたに感謝をささげ偉大な民の中であなたを賛美できますように」で、おそらく「日々の聖句」の編集者は「優れた会衆の中で」を嫌ったのであろう。ついでに、この言葉を「優れた(会衆)」と訳している邦訳は私の手元に有る限り一つもない。新共同訳は何を根拠に「優れた」と訳しているのだろう。ここでの「大いなる集い」とは、カーハルで、これは必ずしも神殿に限らず、場所は特定できないが、それこそ「呼び集められた集い」で、これが後に「教会」の原語となった言葉である。
教会は「多くの民」の間に拡散し、そこでヤハウェを讃える。

2018 日々の聖句 11月2日㈮
神は大いなる喜びをお与えになり、女も子供も共に喜び祝った。エルサレムの喜びの声は遠くまで響いた。(ネヘミヤ12:43)

主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。(フィリピ4:4)

私の黙想:
バビロンの捕囚から解放され故郷に帰還した人びとが、先ず行ったことはエルサレムの城壁を修復することであった。(実際には経済力と民族意識の低下のために、工事は遅々として進まなかったようである)。今日の聖句はその奉献式での喜びの状況を描いている。
人間が生きるためには生活の拠点の確保されていなければならない。それがホームである。どんなに狭く貧しく不便なところであれ、そこに「帰れば」安心して寝られる場所、それがホームである。どんなに豪華な建物、道路、施設が整っていたとしても、それが捕囚の地(仮住まい)であるかぎり、そこはホームではない。
今、私は在宅医療で「入院生活」と同じような生活をしている。週に3回、医者と看護師とが来て、採血、輸血、酸素吸入もしてもらっている。私は医者に人生の最後を自宅で過ごしたいとお願いしているが、最後の状況によってナどうしても入院しなければならないケースもあるが、その時には従って下さい言われている。
私はホームが好きだ。多少の不便があっても、自宅だからこその「生活の質」が保たれ、病気であることを忘れるほどである。しかし、私の我が儘のために経済的にも時間的にも、その他さまざまなことでも、その負担をすべて家族に負わせている。

2018 日々の聖句 11月3日㈯
死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。(詩23:4)

キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。(2コリント1:5)

私の黙想:
羊飼いが手にしている「鞭と杖」とは羊に向けられるものではなく、羊を外敵から守る武器である。だから羊飼いがそれを持っている限り、羊は安心する。だから「あなたの鞭と杖」は私を叱咤激励するものではなく、外部から私を脅かす「災い」から私を守るものである。新共同訳はここで「力づける」と訳しているが、口語訳、新改訳では「慰めます」、フランシスコ会訳は「安心させる」と訳している。「力づける」では「叱咤激励」の余韻が残っている感じがする。
これは「死の陰の谷」という人生における「苦難」を通過するとき、本人よりも必死の表情で叱咤激励する教育ママの姿、その母親の期待に応えようと勉強に励むというような光景ではない。むしろ自分の人生に向かって戦いを挑む息子や娘を遠くから見つめ、イザというときにはいつでも守る、いや守ってくれる両親のもとで「根源的な安心感」をもって励んでいる光景である。
今日の聖句に、「大丈夫、やれるだけやってごらん。イザというときには守ってあげるから」というメッセージを聞く。

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