ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

イエスに躓くということ(ヨハネ6:60〜69)

2015-08-23 08:42:30 | ときのまにまに
今日の福音書日課についての断想(2006.8.27)
ヨハネ福音書6:60~69(特定16B年)

イエスに躓くということ

1. 「イエスの言葉」
「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか」という言葉が弟子たちの間から起こったことは注目に値する。この「ひどい」という言葉は、理解不能とか意味不明ということを意味している。それを理解せよと言う方が無理なことで、誰もそのような言葉を聞いても無意味である、ということを意味する。話し手と聞き手の間にコミュニケーションが成立していない。この言葉は、話し手の言っていることがよく理解できないので、もう少しわかりやすく言って欲しいという聞き手の願いというよりも、もっと敵対的に「もうこれ以上聞いても無駄だ」という聞き手の一方的な宣言である。
こういう言葉が弟子たちの間から出て来たということはイエスにとってもショックであったことだろう。他の人たちはわからなくても少なくとも弟子たちはわかっていると思っていたに違いない。ところが、その弟子たちの多くが「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか」と言い始めた。問題になっている言葉の内容は「イエスが天から降った活ける(生命の)パンである」というイエス自身の言葉であり、弟子たちの多くはこの言葉に躓いた。
宗教的真理を言葉で表現することは非常に難しい。どんなにわかりやすく、面白く語ったとしても、その中心部には日常的レベルでの理解を越えたものがある。それが宗教というものである。なぜなら、語ろうとしている事柄それ自体が豊かな人生経験と素直な心がなければ理解できない事柄だからである。「イエスはパンである」というテーゼは文章としてはこれ以上に簡潔にわかりやすくすることはできない。たとえ、パンという言葉に「天から降った活ける(生命の)」という長い修飾語を付加したとしても、なお、単純明快である。しかし語っている事柄は実に不可解で、常識的理解能力を超えている。単純に「そんなわけがない」ということであろう。弟子たちの多くは、イエスに関するこのこと以外のすべてのことを認めたとしても、このことだけはどうしても理解できない。そして、この言葉に躓く。

2. キエルケゴールの躓き
哲学者キエルケゴールは、このテキストを信仰論の中心に据え、「躓き」という概念を彼自身の哲学の主要概念とした。彼は著書『死に至る病』の中で人の絶望している状態を「躓き」という言葉で表現し、「自分は絶望していないと考えている人間も絶望しているのである」と独特の表現で人間の置かれた環境の絶望性を表現した。キエルケゴールにとって「躓き」とは「天上にある栄光の主なるキリストと地上の卑賤なイエスとの同時性、すなわち、かかる非歴史的なるものと歴史的なるものとの同時性という逆説に対する憤激、反感に由来する不信仰」(キリスト教大事典、教分館、704頁)を意味する。このようなキリストの神人性に対する躓きを「本来的躓き」と呼び、一個人としてのイエスが伝統的な律法に相反するところから生じる躓きを「非本質的躓き」と呼ぶ。
キエルケゴールが、躓きという概念に遭遇したのは、まだ若い頃、教会の前を歩いていたときに、石に躓いて転んでしまった。彼はこの躓きの経験を「もっともっと深いところから考え直せ」というメッセージとして受け止めた、とのことである。人は「躓く存在である」という認識は神秘的である。躓いたことのない人間の言葉はわかりやすいかも知れないが平板であり深みがない。人は、躓くことによって宗教的になる。

3. 松村克己の解釈
すべての宗教には必ず理解困難なもの、秘儀とか秘密とかいうものがある。それがなければ宗教は哲学に解消されてしまうだろうし習俗でこと足りることとなる。サクラメントはこのような秘儀である。だから弟子たちのうちでも、また教会の中でも「躓き」を見出だすことに不思議はない。同時にこの秘儀をわがものとすることなしには生命は現実の経験とはならない。「ひどい言葉」とは受けとりがたい言葉、固くて噛み消化しできない言葉という意味である。宗教が人々の常識に訴えあるいは一般よりも少々高い道徳性や感情に訴える程度の間は、そこに多くの共鳴者を見出だすことはやさしいだろう。しかし、宗教が本来のものを打ち出してくるとき、宗教の真理性とか、高潔さや深みとを顕わにしてくると、かえって疑惑・困惑を感じ失望して去って行くものが多くなる。イエスの場合もまたそうであった。「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(66節)と。このような危機を経験し、乗り越えて残った者がイエスと運命を共にする中核体を形成することとなる。(松村克己著「ヨハネ福音書講釈」より該当部分──文屋によって現代文に改められている。)
松村克己はラジオ放送において、このシーンを以下のように描いている。(この文書は、1967年7月3日(月)より5週にわたってラジオ関西の人間学講座(月曜日朝5時30分より6時まで)で放送された「人間形成の過程──イエスとその弟子たち──第3回告白」の原稿である。先生は、ゆっくりとした口調で、ほぼこの通りに語られた。)
──後にエルサレムで捕えられたイエスを、支配者たちの扇動と奸策に乗せられたとは言え、民衆が「十字架に付けよ」と狂い叫んだというのは、この時に既に養われていたと考えられます。ヨハネは、「それ以来多くの弟子たちはイエスを去って、もはや彼と行動を共にしなくなった」と書いております。このことはイエスの公生涯における大きな転機であります。彼は大衆運動の限界に直面して、その活動の根本的反省、使命の途の再検討を迫られたのであります。
来るべき神の国の中核体を神の民として結成し、弟子たちに使命の途を過つことがないように、はっきりした意識にまで教育すること、それが今や緊急の課題となって参りました。何よりもこのことを固めなければならない。そうイエスは感ぜられたと思います。引き潮のようにイエスから離れ去って行く人心の動きが、彼と共に歩む12人の心に影響を及ぼさぬわけがありません。彼らの心の不信動揺は蔽うべくもないわけです。「この人こそ」と思い定めて、親も家も船も捨てて従って来た人々、将来の希望を繋いできた先生に彼らは今疑惑を持ち始めたのです。
自分たちが考え、望んでいるところと、この人の道とはどうも違うのじゃないだろうか。
      自分たちは思い違いをしていたのだろうか。
      もしそうとすれば去るのは今じゃあるまいか。
      ぐずぐずしていて義理とか腐れ縁が積もってくると離れにくくなるだろう。
そう言えば今に始まったことではないが、先生の言動には自分たちの理解に余ることが何度もあったではないか。
      このまま付いて行って良いだろうか。
弟子たちは一人一人、こういうことを自問自答して迷ったに違いないと思うのです。この彼らの心の動きがイエスにも解らない筈がありません。イエスは先手を打って、彼らに語り掛けるのです。ヨハネによると
      「まさかお前たちも、わたしを去ろうとするのではあるまいね。」
と、いうのがその問いかけです。これに対してシモン・ペテロが答えます。
      「主よ、わたしは、わたしたちはあなたをおいて他の誰のところへ行きましょうか。永遠の生命の言葉を持っているのはあなただけです。わたしたちはあなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」
と。これは彼らのイエスに対する告白、信仰の言い表わしであります。確かに彼らは迷い、また疑っていました。しかしイエスのこの先手の呼び掛けは彼らに対する信頼の表明に他ならないわけです。尻込みする弟子たちの思いはこれによってぐっと前に引き出されたでありましょう。確かに先生に対して疑惑は尽きない。が、彼の許を去ってどこに身を寄せるところ、希望を繋ぐところがあるだろうかと問うて見ると、どこにもない。彼に疑問はあるにしても、そこには何かがある。それが何であるか、定かに自分も掴みがたいが、この人は単なるラビ、一介の教師ではどうもない。それだけは確かである。そこで「神の聖者」という言葉が出る。「永遠の生命の言葉は汝にあり」と言わせるのであります。この問答はおそらくヨハネの創作であろうと思われますが、この局面における、師弟の心の動きを良く掴んでいると言わねばなりません。事実はたぶん、マルコ、マタイ、ルカの3福音書の記者が共通に語っているような、次のようなことであったろうと思われます。(ここからかの有名なペトロによる信仰告白の部分が語られるが、以下省略)

4. 別れる者と従う者
「イエスが何者であるかはその業と言葉とにおいて次第に明らかになる。「躓き」とは彼と共に歩もうとする者がその間に隔たりを感じて歩調が合わなくなった時に起こる。躓くことは二つの場合を生む。躓いて倒れるか、躓いて倒れる代わりに飛躍して遥かの先に立ち直るかである。だから後者の意味では「躓き」なしに信仰の確立はないとも言える。前者の意味でのみ躓きは禍いである」(松村克己著「ヨハネ福音書講釈」より該当部分)。この個所では明らかにキエルケゴールの影響が見られる。
彼らはイエスの言葉に躓き、イエスから離れて行った。それに対して「主よ、わたしたちはだれのところに行きましょうか。あなたは永遠の生命の言葉を持っておられます」という弟子たち、彼らは少数であった。
ここの文脈を考えると、ほとんど弟子たちはイエスを離れて行った。「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか」という啖呵を切って離れて行くのは、潔く、カッコよく、勇ましい主体的な行動である。しかし、彼らもイエスの弟子であった。何らかの形でイエスの言葉と出会い、生きるという経験をし、イエスに従って来たのである。離れて行った弟子たちについて福音書はこう語る。「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(66節)。彼らはここまで「イエスと共に歩んで」きた。彼らがイエスから離れるということは、「イエスと共に歩く」自分自身との決別であり、新しい言葉を求める長い旅路の始まりでもある。
それに対して、残った弟子たちはいかにも頼りなさそうで、離れて行った弟子たちを見送りつつ、彼らもついて行きそうであった。だからイエスは「あなた方も離れて行きたいか」と言葉をかけている。このイエスの言葉には寂しさが籠もっている。はっきり言って、彼らは「イエスと共に歩く」という弟子の立場を「絶対に離れない」という確信的な行動というよりも、判断保留ということで留まっていたのだと思われる。「あなたは永遠の生命の言葉を持っておられます」ということによって従うということは、非常に強い確信のように見えるが、実は覚束ない、「何かいいことありそうな」という程度の信仰である。

5. 永遠の生命の言葉
この問題は決して他人事ではない。わたし自身の問題でもある。「なぜ、私はキリスト者でありつづけているのか」。意地を張って他人に話すときには、「キリストは絶対」などと強い言葉を語るが、自分自身の内面では常にこのことに迷いがある。理由がハッキリしない迷いである。理解できないことは山ほどある。信じられないことも沢山ある。信じていることよりも信じられないことのほうがはるかに多い。キリスト教よりも仏教の思想に納得することも結構ある。また、最近では神道にも魅力を感じる。「神さまなんかいない」と言い切って、気楽な生き方をすることにも魅力がある。しかし、私はキリスト教から離れられない。なぜだろう。クリスチャン3代目だからだろうか。そうではない。はっきり言って、聖書の言葉に魅力を感じるからである。読めば読むほど、学べば学ぶほどいろいろな疑問が出てくるが、その疑問がまた魅力的である。その疑問を解く方法は「自分で考える」しかない。それを考えているときの楽しさは格別である。そして、それが解けたとき、人生の神秘に触れるような喜びがある。それはまさに「醍醐味」である。この言葉は仏教用語で、「醍醐」というものは牛乳を精製して作る食品で、牛乳精製の過程において、乳、酪、生酥、熟酥、醍醐(これを五味という)という製品が作られるという。その最高の製品を醍醐といい、仏教では人生における最高の覚り(ニルヴーナ)にたとえられている。聖書の魅力はまさにこの醍醐味である。それを言葉で言い表わすと「聖書は永遠の生命の言」である。

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