ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 12/4~12/10

2011-12-12 09:59:02 | ローズンゲン
今日のローズンゲン 12月4日(日):
ヤコブは神に祈った。「あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます。」(創世記28:22)
喜んで与える人を神は愛してくださるからです。(2コリント9:7)
私の黙想:
タイス(10分の1献金、「什一献金」ともいう)は、神からの命令ではなく勘定高いヤコブ(人間側)からの提案であった。人間の側から神に願いをし、それをかなえてくださるならという誓いなのだ。これは今まで気が付かなかったが、なかなか面白い。

今日のローズンゲン 12月5日(月):
罪人らのことに心を燃やすことはない。日ごと、主を畏れることに心を燃やすがよい。(箴言23:17)
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。(マタイ7:3)
私の黙想:
この言葉をマタイの言葉のように個人的なレベルの問題に矮小化してはならない。今、私たちが抱えている「原発の問題」を個人的な、あるいは一企業の罪のレベルに還元してしまっては本当の問題は解決しない。これは民族的・国際的、つまり人類的課題なのだ。「主を畏れる」か、否かの問題である。

今日のローズンゲン 12月6日(火):
お前たちのうちにいるであろうか。闇の中を歩くときも、光のないときも主の御名に信頼する者が。(イザヤ50:10)
イエスはバルティマイに、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。(マルコ10:51)
私の黙想:
「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」(詩23)というインマヌエルの信仰に立つ。「いるであろうか」という疑問文は「居ない」という答えを予想している。むしろ「一寸先が闇」という状況でこそ、神への信頼は高まる。「困ったときの神頼り」、OKだ。その時こそ神を思い出せ。

今日のローズンゲン 12月7日(水):
御顔を向けて、わたしを憐れんでください。わたしは貧しく、孤独です。(詩25:16)
主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられるためでした。(2テモテ4:17、新改訳)
私の黙想:
「わたし貧しく、孤独です」。確かにその通りであろう。でも、そんなことをたとえ神に対してであっても、口に出すな。口に出すだけ惨めになる。「み顔を向けてください」だけで十分だ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。(マタイ6:32)

今日のローズンゲン 12月8日(木):
主は、おのおのに、その正しい行いと忠実さに従って報いてくださいます。(1サムエル26:23)
たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。(ガラテヤ6:9)
私の黙想:
やはり宗教は倫理性を含む。今日の聖句では「おのおのに」が強い。「おのおの」が正しいと信じる行為に対して「おのおの」に報いてくださる。報いの内容も「おのおの」に異なる。信仰は究極において「わたし」と神との一対一の関係だ。

今日のローズンゲン 12月9日(金):
主よ、何に望みをかけたらよいのでしょう。わたしはあなたを待ち望みます。(詩39:8)
わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。(2テモテ1:12)
私の黙想:
「何に望みをかける」とは現代風にいえば、生き甲斐ということであろう。さて、この問いにまともに答えようとすると非常に難しい。私の生き甲斐とは何か。金か、名誉か、仕事か、食か、遊か。考えてみるといずれでもない。強いて答えを出そうとすると「人間愛」か。いや、もっと狭めて「家族愛」か。結局、「エゴイズムの延長」か。なかなか「主」は出てこないな。ワザと避けている訳でもないのに。

今日のローズンゲン 12月10日(土):
わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。それは彼らとの永遠の契約となる。(エゼキエル37:26)
神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格を与えてくださいました。(2コリント3:6)
私の黙想:
エゼキエルの預言の「永遠の契約」は永遠ではなかった。キリスト教会はこれを「受け取り直し」、観念化し、「永遠の契約」とした。契約というものは解釈によって無限に変更される。神と人間との関係は「契約関係」で説明しきれない。切っても切れない関係だ。

<付録>
1.ローズンゲンとは
「ローズンゲン(日々の聖句)」はドイツのヘルンフート兄弟団が1728年から発行している聖書日課です。旧約聖書の中から、短い聖句を選び出し、断片化し、混ぜ合わせ、そこから籤(くじ)で、一日一句の聖句を選び出します。その聖句は「人間の思いを超える神意として、わたしたちに与えられるものです。その上で、その聖句に見合う新約聖書の言葉を、今度は聖書の専門家たちが協議して選び出して付け加えます。従ってあくまでも籤によって選び出された旧約聖書の言葉が中心です。なぜ旧約聖書なのか何の説明もありませんが、わたしは旧約聖書だからとても良いと思っています。新約聖書の言葉はそれを補うものですが、決して解説や説明を加えていません。なぜ、そんな言葉が選ばれたのかということも黙想のヒントになります。考え、理解し、納得するのはあくまでも日毎にそれを読む者の課題です。この方法は1728年以来、280年以上変わっていません。現在ドイツ語圏では毎年100万部以上が発行され、ドイツ語以外では43の言語に翻訳されていると言われています。おそらく全世界では200万人の愛読者がいると推測されています。
ドイツ語の「ローズンゲン」という言葉は「合言葉」という意味です。これを日毎に読むことによって一つの共同体に属していることを確認するという意味もあるのかもしれません。


2.ヘルンフート兄弟団とは
これを発行しているヘルンフート兄弟団は、ドイツ敬虔主義の伝統を受け継ぐプロテスタントの共同体で、1727年にニコラオス・L・ツィンツェンドルフ伯(Zinzendorf 1700-1760)によって設立されました。伯爵が設立したというよりも、宗教改革と反宗教改革のうねりの中で、祖国を追われたモラヴィア(ドイツ語ではメーレン、現チェコの中部)から国境を越えてドイツのザクセン地方へと逃れてきたプロテスタントの人々に、伯爵が領土の中で保護し、住む場所と働き場所を提供したのが始まりです。「ヘルンフート"Herrnhut"」という言葉は「主の守り」を意味いたします。もちろん、この場合のヘルン(主人)とは伯爵ではなく「主イエス・キリスト」です。日本語では「同胞教会」と訳され場合もあります。この団体はメソジスト教会の創立者ウェスレーにも大きな影響を与えました。
日本語のローズンゲン2010年版の「あとがき」によりますと、ドイツ語版では新約聖書の後に、祈りや瞑想のために役立つ賛美歌の一節やいろいろな人の祈りなどが第3のテキストとして続いているとのことですが、日本語版ではそれは省略されている。わたしは省略されて正解だと思っています。

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